松方 幸次郎。 松方幸次郎の家系図や妻・子供が気になる!八木沼純子との関係を調査は?

松方幸次郎の思い出

松方 幸次郎

1889年イェール大の学友と(中列左) (慶応元年)士・の三男として鹿児島に生まれる。 (明治8年)、明治政府高官に就いた父・正義の住む東京に移り、翌年に海軍との関係が強かった(現・)幼年科に入塾。 (明治11年)に同中年科に進学。 さらに共立学校(現・)で学び、1881年(明治14年)に(を経て現・)に入学した。 (明治16年)に東京大学の第一号と言われる「明治16年事件」に関わり、学位授与式をボイコットした。 これは学位授与式の運営方法を巡って、かねてからの学校側の学生に対する管理強化に学生の不満が爆発したものだった。 翌年(明治17年)に東京大学予備門を中退。 同年4月に渡米。 に入学の後、に転学。 を取得し、(明治23年)帰国。 (明治24年)組閣に伴い、父の首相秘書官となる。 一時、経営や官途についたが、(明治27年)に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。 政財界での躍進 [編集 ] (明治29年)創設者で、幸次郎の米国留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった同郷のに要請されて、株式会社初代社長に就任。 この時、川崎造船所は川崎正蔵の個人経営から改め株式会社として再スタートした。 それをきっかけとして、大阪舎密鉱業(1898年)、神戸瓦斯(同)、(1899年)、神戸桟橋(1908年)、(同)、九州土地信託(同)、(1920年)、(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄の社長に就任し、その他11社の役員を務めた。 さらに会頭、(明治45年)にはに当選し代議士も務め、神戸の政財界の巨頭であった。 川崎造船所の躍進と挫折 [編集 ] 幸次郎が船頭に就いた川崎造船所は、川崎正蔵の計画していた乾の建設を皮切りに「攻めの経営」を展開し、折からの国家的規模の造船国産化の追い風もあり業績を順調に伸ばした。 また(明治27年)の、(明治33年)の、(明治37年)のの勃発により国家的規模で軍備強化が推進される中、のに労働者を派遣し造艦技術を学ばせ、また呉に近いには出張所を設け、との交流を深めて海軍からも造艦の受注を受けるようになった。 当初は小型艦艇の組み立てや修理を請け負ったが、やがて大型艦の造船も請け負い、川崎造船所は民間ではとならぶ造船会社にまで成長した。 (大正3年)が勃発。 本来、造船業は受注生産が基本だが、世界的な商船不足を予見した幸次郎は、受注前にあらかじめ船を大量生産する「ストックボート方式」を用いて莫大な利益を上げた。 しかし、(大正7年)に第一次世界大戦が終戦し、ヨーロッパの造船界が再稼働して世界の船舶需要が供給過多に転じたことにより、大量の在庫を抱えることになる。 また、(大正11年)の締結では軍縮による軍艦建造縮小の煽りを受け、さらに(昭和2年)のを決定打に川崎造船所は事実上の破綻を喫する。 幸次郎は不況の中でも積極策を続けたが、設立した商船会社も利益を生まなかった。 金融恐慌では多くの銀行がで休業に追い込まれ、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄のが頭取を務めるも1927年には休業を余儀なくされていた。 関係が強く、大口債権者であった軍部の支援によって川崎造船所の倒産は免れたものの、幸次郎は不況下で積極経営を強行した責任を取り、務めていた全ての会社の役員を辞任する。 その後は衆議院議員を(昭和11年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。 戦後、の推薦議員のためとなった。 追放中の1950年(昭和25年)死去。 コレクターとして [編集 ] 「」も参照 川崎造船所社長として隆盛を誇った期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指しヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵はの名で知られ、その一部はの母体となった。 第一次世界大戦中の(大正5年)、戦火の中で渡英した幸次郎はの戦意高揚ポスターに感銘を受ける。 幸次郎は本業の激務の合い間を縫ってブラングィンを訪れ、二人はたちまち意気投合した。 日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願はブラングィンとの交流の中で芽生えた。 西洋美術館の設立計画はかなり具体化しており、幸次郎は・のに美術館建設用地を確保していた。 ブラングィンは幸次郎の計画をもとに製の建築模型を作っており、設立予定の美術館の「共楽美術館」という名前まで決められていた。 共楽美術館の名前にはコレクションを秘蔵せず、国民が等しく美術作品を楽しめるようにとの幸次郎の思いが込められていた。 第一次世界大戦後も幸次郎はヨーロッパに渡り、パリを中心に、、、らの作品を次々に購入し美術品収集を続けた。 なお、この時期は幸次郎が展開した川崎造船所の積極経営策に陰りが見え始めた時期と一致する。 の巨匠・を度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。 幸次郎はモネの画家人生の集大成と評される「」をモネ本人から直接購入している。 1916年(大正5年)から約10年間、幸次郎はたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めた。 現在はが所蔵するの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた約8,000点の浮世絵を含め、作品総数は1万点におよぶと言われている。 しかし、先述の川崎造船所の破綻によってコレクションは売り立てられ国内外に散逸。 作品の一部はの倉庫火災で焼失し、第二次世界大戦末期にはフランス政府に敵国人財産として取り上げられる運命を辿ることになる。 は、にフランス政府から寄贈(第二次世界大戦での対立の過去を背景に「返還」の形式は取られていない)されたの受け入れ機関として東京・に設立された。 間接的にではあるが、日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願は、多くの悲劇や惨禍を乗り越え、紆余曲折を経て達成されたと言える。 栄典 [編集 ]• (大正5年) - エピソード [編集 ] 松方は思い切ったいたずらをする人物だった。 神戸にある川崎造船所の構内に海軍の監督官の事務所があって、そこからドックへ行くのに広い道路を横切らなければならないが、雨の日は道がひどくぬかるむ。 そこで海軍の監督官が道を横切る地下道を建設するように川崎造船所側に要求した。 川崎造船所は得意先の海軍の要望だからと、注文通り地下道を建設した。 そして松方はこの地下道に「海馬路」という名前をつけ、額にして入り口にかけて悦にいっていた。 海馬()というものは、海の上からくぐり、また海の上に出る。 地上からくぐってまた地上に出るのだから「海馬路」という説明なのだが、松方の思いつきはそうではなかったようで「海軍の馬鹿野郎の通る路」というつもりだったらしい。 そのうち海軍のほうでも感づいて馬鹿にしておると憤慨する者もいたという。 脚注 [編集 ] []• 攻玉社人物誌. 攻玉社学園. 2013年3月15日• 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、頁。 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。 『岡田啓介回顧録』 毎日新聞社 1950年12月25日 31p 関連項目 [編集 ]• - 「松方コンツェルン」とも呼ばれる• 外部リンク [編集 ]• - 川崎重工業• - にある松方の名を冠したホール 先代: - ()社長 初代:(~) 次代: 先代: - ()社長 初代:(~) 次代: 先代: 川崎芳太郎 社長 第2代:(~) 次代: 先代: 川崎芳太郎 社長 第2代:(~) 次代: 黒川新次郎.

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松方幸次郎

松方 幸次郎

松方幸次郎の思い出 燃 え 尽 き る 時は、真珠湾奇襲の興奮が醒めやらない一九四一年 昭和16 十二月。 場所は国会議事堂内の廊下。 実業界を退いたあと、故郷の鹿児島から国会議員に選出された松方は、数人の護衛に囲まれる東条英機と眼があった。 「威張って歩いてくる人がいると思ったら、おまんさんでしたか」 松方は、薩摩弁でぶっきら棒に声をかけた。 東条は頭を下げると、 「これは松方先生、どうか健康に気をつけてください」 と、年長の松方へいんぎんに言葉を返した。 松方はその言葉尻を捉える。 「あんたが首相をやっている限り、まだ死ねもはんない」 心配した秘書が袖を引く。 だが、松方は、 「あんたは首相を辞めなさい」 とまで言ってケロリとしている。 後年、九州屈指の大事業家になったこの秘書は、自らの伝記の中で 「松方の気骨に全身が熱くなった」 と振り返っている。 松方はこの時、代議士生活二期目に入っていた。 欧米の実状に明るいだけに、開戦の無謀さを誰よりも看破していた。 第一、飛行機工場ひとつとっても、その生産力に雲泥の差があるのをよく知っていた。 しかい、戦前の計四期に及ぶ政治家生活の中で、松方がもっとも松方らしかったのは、宰相の東条を面罵したこの一件ぐらいである。 挙国一致の翼賛政治の中で、松方は角を収め、次第に影を薄くする。 戦前の国会での記録を隅々まで探しても、松方は発言らしい発言を一度もしていない。 松方は戦後、鎌倉の知人宅の一角でつましい晩年を送った。 不遇の日々を過ごす松方は、肉親たちの目には 「いら立っている」 と映った。 松方はふと思い出したように、こんな独り言を口にした。 「フランスへ行ってこなきゃいかん」 「フランス?」 「絵を整理して持って帰る」 「何を言ってるの。 日本は戦争に負けたんですよ」 しかし松方には、その言葉は届かない。 脳裏を激しくフラッシュバックするのは、画廊を巡って名画を買い、印象派の巨匠・モネと語り合ったあの日々だった。 「わが人生」 の手ごたえを感じさせるのは、収集した名画の数々だったのである。 松方は一九五〇年 昭和25 六月、八十四年と七ヶ月の波瀾の人生に幕を下ろした。 思えば、明治、大正、昭和と近代化途上にある日本にあって、常に海の彼方に目をやり、世界の土俵で日本を捉えたその足跡は、文字通り 「国際人」 の名がふさわしかろう。 一八七一年 明治4。 遣欧米全権大使岩倉具視の一行と留学生の出発に際し、時の太政大臣三条実美は、こんな 「送別の辞」 を与えた。 「・・・・行ケヤ、海ニ 火輪 ( かりん ) ヲ転ジ、陸ニ汽車ヲ 輾 ( めぐ ) ラシ、万里 馳駆 ( ちく ) ・・・・」 「火輪」 とは 「太陽」 の意味であり、 「汽船」 のことをさす。 欧米の文明を貧欲に吸収し、国際舞台への飛躍にかける切実な思いが、三条の言葉に弾みをつけた。 それは当時の日本人の共通した心情であり、まさしく松方もまた、並外れたスケールの国際派として 「海ニ火輪ヲ転ジ」 て燃えた一人なのである。 これまで、松方の生涯をかいつまんで紹介した。 次編からは、その人生と時代をじっくりと検証していきたい。 舞台は、松方一族のルーツ・鹿児島へ飛ぶ。

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この男がいなければ国立西洋美術館はなかった!? 松方コレクションの流転の歴史を解き明かす【国立西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展】

松方 幸次郎

職員のみなさんが台風11号の災害復旧に従事されている中、心苦しかったのですが、諸般の事情もあり、8月13日から15日までお盆休みをいただきました。 休みの間は、市役所から入る情報に注意しながら、 『火輪の海-松方幸次郎とその時代-』 神戸新聞社編)を読了しました。 前編287頁、後編321頁、600頁を超える大著です。 松方コレクションで知られる 松方 幸次郎 1865-1950 の生涯を描いた評伝です。 松方幸次郎は、明治の元勲、松方正義の三男として生まれ、川崎造船所(現川崎重工)社長、神戸新聞社初代社長、衆議院議員、そして、美術品収集家など多彩な顔を持った実業家です。 美術品の収集を中心に描かれていますが、神戸が日本を代表する大工業都市、国際港湾都市として発展していく過程が、松方の生き様を通じて、鮮やかに描かれていました。 川崎造船所の創始者・川崎正蔵、鐘淵紡績の武藤山治、鈴木商店の「大番頭」金子直吉、大阪経済界の重鎮・五代友厚、兵庫県知事・服部一三、神戸市長・鹿島房次郎、ロシアの陸相クロパトキン、社会運動家・賀川豊彦、近代中国建国の父・孫文、そして、印象派を代表する画家クロード・モネ、洋画の巨匠・黒田清輝など多彩な人物が登場します。 松方が夢見た「共楽美術館」は、結局は実現を見ることはありませんでしたが、1953年、吉田茂内閣は、コレクションを受け入れる美術館建設を閣議決定します。 神戸市助役に就任したばかりの宮崎辰雄は、さっそく神戸での建設を外務省に要望しますが、東京の上野に が開館し、松方コレクションの一部が所蔵されることになりました。 常に時代の先を読み、さまざまな局面で不可能を可能にしていった松方幸次郎の業績は、膨大な松方コレクションを通じて、長く後世に語り継がれていくことでしょう。 文中敬称略).

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