ビートルズ ヒア カムズ ザ サン。 ヒア・カムズ・ザ・サン 大阪 ビートルズ ダイニング&ミュージックライブバー ヒアカム

ザ・ビートルズ、「ヒア・カムズ・ザ・サン」の新MVのトレーラー映像公開

ビートルズ ヒア カムズ ザ サン

概要 [ ] 主にに活動していた。 ジョン・レノンがバンド「」を1957年に結成して「ビートルズ」と1960年に改名して10月5日にレコードデビュー。 4月10日に事実上解散。 "Fab Four" という愛称もある。 活動期間内に母国イギリスで のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作がで週間第1位を獲得した。 11作の週間第1位の合計獲得数は162週。 年間売り上げ最高アルバム4作と第1作『』による連続30週第1位はいずれも1960年代の最高数。 シングルは 発売し、その内17作が第1位を獲得。 アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミング等の売上総数は6億枚を超えており 、に 最も成功したグループアーティストと認定されている。 1965年10月26日に女王からを授与されている。 に入り。 活動前期においてはとして「」と称されるファンを獲得。 後期には『』や『』などの名盤と言われるような作品を発表し、より音楽的な面から評価されており、解散から数十年が経過した現在でも、映画作品や記念盤が発表されるなど世界中で根強い人気を誇っている。 バンド名の由来 [ ] ビートルズのロゴ 「BEATLES」という名称はとが考えた造語である。 ただし、1960年8月から行った最初の巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告 には「The Beatles」と記載されている。 メンバー [ ] 基本的担当パートを太字表記 名前 プロフィール 担当 在籍期間 主なメンバー : John Lennon - 1980-12-08 (40歳没) ・ 1960年 - 1969年 : Paul McCartney 1942-06-18 (77歳) ・マージーサイド州リヴァプール ボーカル ベース リズムギター リードギター ピアノ キーボード 1960年 - 1970年 : George Harrison - 2001-11-29 (58歳没) ・マージーサイド州リヴァプール リードギター ボーカル リズムギター キーボード、ベース 1960年 - 1970年 : Ringo Starr 1940-07-07 (79歳) ・マージーサイド州リヴァプール ドラムス ボーカル 1962年 - 1970年 初期のメンバー : Pete Best 1941-11-24 (78歳) ・ ドラムス ボーカル 1960年 - 1962年 : Stuart Sutcliffe - 1962-04-10 (21歳没) ・ ベース 1960年 - 1961年 () (: Chas Newby) 1941-06-18 (78歳) ・ ベース 1960年 - 1961年 () (: Norman Chapman) - (57歳 - 58歳没) ドラムス 1960年 () (: Tommy Moore) - 1981-09-29 (50歳没) ・マージーサイド州リヴァプール ドラムス 1960年 ツアー時のメンバー () (: Jimmie Nicol) 1939-08-03 (80歳) - ・ ドラムス 1964年 ジョン・レノンが・バンド「」を1957年に結成。 ビートルズと称してから在籍したメンバーは通算6名。 その内2名は1962年10月5日にシングル『』でデビューする前に脱退している。 その一人、 は1960年1月に加入してベース担当になり、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退。 その後、4月10日に21歳で死去した。 もう一人の は、8月に行った最初の巡業の直前にドラムス担当として加入したが、1962年8月16日に解雇される。 さらにデビュー直前の1962年8月にドラマーがピート・ベストからリンゴに交代し、解散までこの編成が続いた。 最初の2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたので、原則としてこの編成が一発録りを行なった。 3作目の『』から4トラックが導入されて多重録音が可能になったが直ちには使用されず、5作目のアルバム『』録音から「ドラムス・ベース・リズムギター」「リードギター」「ボーカル」の順に録る事が多くなっていく。 中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でやを担当する場合はジョンやジョージがを弾くこともある 他、の『』(通称ホワイト・アルバム)録音時のリンゴの脱退騒動 に絡んで「」と「」はポールがを担当している。 その他、曲によってはメンバー各人がを演奏している。 は基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを弾いている。 ジョンはリードギターを「」、「」、「」などで弾いている。 ポールは「」のフェイド・アウトの部分、「」の間奏部とラスト部分、「」などでリードギターを弾いている。 「」の間奏部分はポール・ジョージ・ジョンの順にリレーする形でギターソロを演奏している。 リード・ボーカル [ ] 4人全員がいずれかの曲でリード・ボーカルを担当している。 リード・ボーカルは基本的に作詞作曲した者が担当する。 初期の「」「」などのジョンとポールの共作曲はジョンとポールが2人でリード・ボーカルを担当している。 ジョージは「」、「」、「」、「」など、リンゴは「」、「」、「」、「」などでリード・ボーカルを担当している。 曲毎に使用された楽器 [ ] 曲によっては基本編成以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と、外部から参加した演奏者がセッションした作品がある。 メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「」から3曲連続でジョン がを演奏している。 は、ポールが「」、「」、「」、「」、ジョン作の「」などでピアノを担当しており 、また映像作品『』では「」でのイントロのをポール自ら演奏しながら解説を行っている。 ジョンは「」、ジョージ作の「」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催された・コンサートでは「」でのオルガンを演奏している。 「」から導入されたはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いたのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入して使用した。 1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けている。 また、「」や「」での ()、「」でのソードマンデルなどもジョージが担当している。 「」ではジョンがを演奏している。 はアルバム『』においてジョージが導入した。 1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「」や「」でジョージが演奏。 ポールも「」で、ジョンが「」で、それぞれ演奏している。 外部から参加したミュージシャンの例では、セッション・ドラマーのが、デビュー曲となった「」のレコーディングに参加している。 ただし、これはメンバーの意向ではなくプロデューサーのの判断によるもの。 メンバーの意向による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「」、「」で弦楽四重奏団が、「」では奏者が招かれている。 同じロックやポップスの分野では「」でを弾いたや、「」でを弾いたが挙げられる。 プロデューサーのは「」、「」、「」などの間奏でクラシカルなを弾いた。 また、のは「」においてで参加している。 アルバム『』のセッションにはがやなどで参加している。 ただし、外部から参加したミュージシャンはプレストンを除いてレコードのクレジットには記載されていない。 利き手 [ ] メンバー4人のうちポールとリンゴはである。 ポールは文字を書く時も左で、リンゴは文字を書く時は右で書く。 ポールは自身で「僕は左利きだ」と述べており 、ベースやギターは左利き用の物を使用している事や(ただし、ドラムのみは右利き用のセッティングで叩いている)、文字を左手で書いている写真・映像などで確認できる。 リンゴは自身の発言はないが、演奏しているドラムスが右利き用である他、サインなどの文字を右手で書いている写真が存在する。 作詞作曲 [ ] オリジナル曲はすべてメンバーが作詞作曲している。 最も多いクレジットはジョンとポールの共作名義である「」で、ビートルズナンバー213曲の内、144曲が「レノン=マッカートニー」名義になっている。 それ以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の「マッカートニー=レノン」作品8曲、「ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー」が13曲 、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。 未発表曲集『』には、ジョンとジョージの共作、ポールとジョージの共作の作品も収録されている。 レノン=マッカートニー [ ] 詳細は「」を参照 「レノン=マッカートニー」名義の作品はアメリカのビルボード、イギリスのミュージック・ウィークの双方で第1位を記録した曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には 最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。 ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、書籍「」 のポールのコメントによれば、「」はジョンがメイン、「」はポールがメイン、「」は半々、と様々なパターンが存在するが、基本的にはその曲をメインで作った方がリード・ボーカルを取っていることが多い。 また同書によれば、共同クレジットで発表していくことは早い時期から決まっており、「レノン=マッカートニー」という序列は2人の話し合いの上で決定した。 ただし、第1アルバム『』でのみ「マッカートニー=レノン」という表記になっており、「」などポールが主に作詞作曲した曲は「マッカートニー=レノン」表記にする事も検討されたが実行はしていない。 結成当初から、ジョンとポールのどちらか一方が単独で作った曲であっても「」または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。 このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。 にジョンが名義で発表した「」の作詞作曲も、かつては「レノン=マッカートニー」とクレジットされていた。 クレジット通りに2人で共作した曲は二十数曲という見解もあったが、ジョン・レノンはインタビューで否定しており、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」において「多くの曲が共作である」と述べている。 ただし、「共作」の割合は曲によって異なり、50-50で作った曲もあれば、一方がメインで作詞作曲し、もう一方は手伝った程度という曲もある。 デビュー直前までの経歴 [ ] クオリーメン結成からビートルズへの改名まで [ ] 3月、ジョンが・バンド「」を結成する。 同年7月6日、 ()の ()が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポールが観る。 ポールは共通の友人であるアイヴァン・ボーン に紹介されジョンに面会した。 ポールはギターを弾きながらの「 ()」、の「」、それにのメドレーを歌った。 ポールが歌詞を完璧に覚えている事 に加え、やも演奏出来る事にジョンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にポールは参加すると返答した。 翌1958年2月6日、ポールの紹介でジョージがクオリーメンのオーディションを受ける。 「 ()」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わる。 になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。 1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入しになる。 同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフがバンド名はビートルズではどうかと提案するが、興行側のブライアン・キャスが改名を要請。 交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」とする。 ビートルズへの改名以後 [ ] 5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー のバックバンドを務めるオーディションにエントリーする。 この後、シンガーに決定したのバック・バンドとしてにツアーに出る。 この時、ジョンは「ロング・ジョン」、ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージは「カール・ハリスン」、スチュアート・サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を付けていた。 このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する。 8月、アラン・ウィリアムス を通じてのハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たなドラマーが必要となる。 この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子がドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。 この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行う。 当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していった。 1か月後「カイザーケラー」に移動。 またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。 さらに、この頃 ()) が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。 写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後に『』などの文献に収録された。 同時期にアストリットの友人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるとも親交を結ぶ。 ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上の「 ()」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしている映画館の出火を理由にポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。 スチュアートだけはアストリットに援助されしばらくハンブルクに滞在した。 再建されたキャヴァーン・クラブ。 1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していた所にアラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、オーディションの上でリヴァプールのにレギュラー出演するようになる。 またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役として が、続いて が雇われた。 同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。 前回、出演依頼があったザ・トップテン・クラブで演奏するようになる。 このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。 また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を提案。 ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後に「」と呼ばれるようになる。 4人のビートルズ誕生 [ ] 2度目のハンブルク巡業が終わった時点でスチュアートが脱退。 アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。 ポールがギターからベースに担当を替え、4人組のビートルズが誕生する。 帰国後の8月、ジョンの級友だった ()が音楽新聞「 ()」を発刊。 ジョンの書いた文章が載るようになる。 12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたがマネージャーになることが決まる。 このブライアンの売り込みにより、1月1日にのオーディションを受けるが、不合格となる。 その後もライブ活動を続ける傍ら、ブライアンが各レコード会社に売り込みを続ける。 4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブで演奏。 その前日の 4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去する。 6月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルから、プロデューサーのによるオーディションが打診される。 6月6日に行われたオーディションを受けてデビューが決まった後の8月15日、ピート・ベストが解雇される。 直後にリンゴ・スターが加入し、9月からEMIでレコーディング・セッションが行われる。 この時はリンゴの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。 また、エンジニアとして参加した ()は、この後『』までチーフ・エンジニアを務める事になる。 ハンブルクでの録音 [ ] ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはのバック演奏も担当した。 1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(を参照)。 「」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのボーカルの「 ()」、ナンバーのビートルズのオリジナル曲「」もレコーディングされた。 デビュー以降の経歴 [ ] デビュー [ ] 1963年10月30日,スウェーデンのテレビ番組「DROP IN」で 1962年10月5日にイギリスにてシングル『』でデビュー。 ()のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録。 1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル『』がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位 を獲得。 この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3枚目のシングル『」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる。 1963年4月26日に英国でのファースト・アルバム『』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた。 連続第1位が続いている中、1963年11月22日にセカンド・アルバム『』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得。 1964年5月まで21週間連続1位になる。 ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。 10月13日、当時の人気テレビ番組「 ()」に出演。 およそ1500万人 がビートルズの演奏を視聴した。 メンバーの発言 によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している。 同じ頃、と称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細はを参照)。 世界進出 [ ] 1964年2月9日、エド・サリヴァン・ショーに出演 しかしこの頃、アメリカではまだヒットを出せていなかった。 新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIレコードを販売しているにアメリカでの販売を要請した がキャピトルは拒否。 その為や ()などEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、ポールの発言 などによれば、レコード会社が小さい事もあり、大規模な販売は実現しなかった。 その後「誌」や「誌」がビートルズを記事にし、のがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方から「レコード販売させて欲しい」と要請して来た。 1964年1月に公演を行う。 その最中にアメリカでから発売されたシングル『抱きしめたい』がシングルチャート1位になった。 1964年6月,オランダのテレビ番組で 2月にグループとして初めて渡米し、9日にの『』に出演。 ポールの発言によれば視聴者数は7300万人 となった。 11日にで初のアメリカ公演を行う。 で2回目の公演を行った後、16日にのドービルホテルで2回目の『エド・サリヴァン・ショー』に出演。 この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている。 4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占。 6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催されるが、リンゴが炎に患って入院し、代役として ()が起用される。 その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。 の ()での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている。 7月6日、イギリスで監督 による映画『』 が公開。 10日にを発売し、『』を抜いて12週間1位を保持していたのを押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。 この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外ではと『』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった。 またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『』(11週連続)、『』(5週連続)、『 』(14週連続)の3作が1位を獲得している。 「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。 アメリカでは、次作のシングル「」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。 8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演 が開催される。 なお同年7月に施行された公民権法制定により人種差別が許されなくなったはずのアメリカのフロリダ州ジャクソンヴィルでは、開催される予定のゲイター・ボウルがその後も黒人と白人の人種隔離政策を取っていたが、これを記者会見で尋ねられたポールがこれを「馬鹿げている」、リンゴも「全ての人々のために演奏している」と明確に非難し、その上で人種隔離政策を取っているような場所での公演を拒否し、称賛を受けた。 なおゲイターボウルでは無事に人種差別が起きないまま公演を終えている。 9月に帰国し、アルバム『』を録音。 10月からはイギリスの27都市で公演を行った。 12月4日、イギリスで『ビートルズ・フォー・セール』を発売。 日本では2月にシングル『抱きしめたい』でデビュー。 日本だけで1965年1月までの約1年間のシングル盤・LP盤を合わせた累計売上は300万枚 に達し、日本での発売元であるからメンバーにゴールデン・レコードが授与された。 映画『ヘルプ! 』のアメリカ版予告編 1965年2月 から映画『』の撮影を開始。 前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在するカラー作品となった。 7月に公開され、サウンドトラックアルバム『』 は8月6日にリリースされた。 その収録曲のひとつである「」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。 8月15日、ニューヨークので55600人 の観客を集めた野外コンサート開催(詳細はを参照)。 10月にはメンバーに対して、外貨獲得に対する貢献でが授与される。 12月にアルバム『』を発売。 ジョンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており 、「」や「」、を演奏に加えた「」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。 シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたジョージの提案である。 同月、最後のイギリスツアーを行う。 このツアー中に、メンバーがコンサート活動を続けるかどうか話し合っている。 1966年3月、ジョンがイギリスでのインタビューでビートルズとを比較する発言を行う。 8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を醸す(詳細はを参照)。 4月にアルバム『』の録音を開始。 この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったがチーフ・エンジニアに就任。 6月24日から7月4日までと、を回る最後の世界ツアーを行う。 8月には最後の アメリカ公演を行ない、29日ので終了した(詳細はを参照)。 同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。 野球場でのコンサート [ ] の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった。 そのため、の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。 その代わりにコンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができるを使うことになった。 にニューヨークのにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っている。 これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全てのコンサートの中でも最大数である。 の全米ツアーのみならず、翌の全米ツアーでも多くの野球場が使用された。 ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており 、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細はを参照)。 これ以後、野球場・といったスポーツ競技場での大規模コンサートは一般化していき 、日本でも1968年8月12日にによるでのコンサートが開催されて以降、スポーツ競技場でのコンサートが開催されるようになる。 また、スポーツ競技場以外でも1969年のや1970年のといった大規模野外コンサートが行われるようになる。 エルヴィス・プレスリーとの面会 [ ] 1965年8月27日に、ビートルズはロサンゼルスの宅に招かれた。 エルヴィスのマネージャーである大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、エルヴィス宅周辺には人々が集まった。 面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。 部屋でエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習しながらくつろいでいた。 「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、エルヴィスが「ずっとそうやって僕を見ているだけなら僕はもう寝るよ。 せっかく演奏ができると思って待っていたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。 エルヴィスはベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。 リンゴはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。 エルヴィスはビートルズの曲も歌い「君たちのレコードは全部持っているよ」と言った。 対してジョンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したのでその場が凍りついた。 これはジョン流の過激なジョークだったのだが、エルヴィスはその発言に気分を害してしまった。 ジョンはエルヴィスのに賛同する姿勢や、マンネリ気味である映画を痛烈に批判した。 これらの事をきっかけにエルヴィスはジョンを嫌うようになった。 エルヴィスはポールやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に歌っているが、ジョンの曲は歌っていない。 ジョンは発言を反省したのか後日、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)に「エルヴィスがいるからこそ今の自分がある」と伝えるよう頼んだという。 しかし後にジョンがアメリカに住み、ベトナム反戦運動を積極的に行っている頃、エルヴィスはに「ジョンを追放してほしい」との手紙を出したとも言われている。 この面会は当時の音楽界に於いて最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。 これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがエルヴィス側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。 ジョンのキリスト発言 [ ] 1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるジョンのインタビュー記事が「 ()」誌に掲載された。 この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。 元の記事は紙面にして2頁という量 だったが、デイトブックはその中の1行である「」という発言を抽出して掲載した。 これが「神を冒瀆した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。 特にアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った。 この事態に対し、ブライアン・エプスタインはツアー前に声明を発し「その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。 しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ」という旨を述べた。 またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートをキャンセルしても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった。 公演前にジョンが釈明会見を行ったが騒動は続き、 に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。 アメリカツアーは予定通り行われた が満員にならない会場も多かった。 ローマ教皇庁の赦免 [ ] 事件から42年を経た11月、ヴァチカンの公式新聞「」は、がジョンの発言を赦したという声明を発表した。 この記事は、に発表されたものを再度掲載したものである。 「予想外の成功を手にした若者が『豪語しただけ』に過ぎない」というのがローマ教皇庁の見解である。 『』40周年記念の年であり、ビートルズを称賛する内容で締めくくられている。 2010年4月にも、ビートルズ解散40年に合わせ、同紙はビートルズを称賛する記事を掲載した。 日本公演 [ ] 日本武道館の内部 唯一の日本公演をに催行。 ビートルズはのため予定より11時間ほど遅れの機でに6月29日 午前3時39分に到着。 羽田到着時には日本航空の法被を着てタラップを降り、にパトカー先導でホテル(東京ヒルトンホテル[後の])へ向かった。 公演は6月30日および7月1日・2日 に催行(計5回)し7月3日午前10時44分に離日。 会場はすべての。 7月1日の昼の部に収録された映像は、当日夜にで放送された。 司会を務めたのは。 前座として、、、、、、(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。 この前座バンドについては後にポールが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。 音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している。 このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。 しかしそうした歓待の一方で、初めて日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者も存在した。 団体、総裁のをはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ 、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた。 このためは大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った。 またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中のホテルからの外出禁止などの措置がとられたが、その代わりにのホテルへの訪問、着物屋や土産屋が訪問販売をした他、メンバーは行動制限をかいくぐって早朝の東京の街へ出かけている。 コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。 むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった )会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受けた。 ジョージは最初のステージ後、「今日の『』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。 これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした。 3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれる。 フィリピン事件 [ ] 1966年7月3日午前10時44分頃に機で羽田空港を発つとに行き、取材を受けた後機に乗り換えてマニラに渡航した。 7月4日に にて公演を2回行ない、計10万人を動員。 7月5日に離比した。 4日のコンサートの前にによる歓迎パーティーがでとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い休日だったため、 ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによれば ブライアン・エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。 それにもかかわらずフィリピンのテレビは官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた が、結局ビートルズ側は出席しなかった。 5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。 離比しようとしているビートルズは空港等で多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する。 ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡して 許可がようやく出てフィリピンを離れることができた。 後にメンバーおよび関係者は事件について 「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。 この一件によってエプスタインが体調を崩した。 あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。 後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。 ニール・アスピノールは「この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因」と述べている。 レコーディング・アーティストへの移行 [ ] これまでのビートルズの世界各国を巡るコンサート活動は、1966年8月29日の・でのコンサートを以て終了した。 1965年の段階でリンゴ やジョージ はスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。 加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。 当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず 、も満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。 1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100のアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている。 こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていない事もメンバーは不満に感じ始めており 特にジョンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している。 さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。 日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され 、日中にほとんどホテルから外出できなかった。 さらにその後のやでは、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。 こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り 、コンサート活動の終了に至った。 ブライアン・エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでジョージに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している。 さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はを参照)ことも、公演活動の再開を遠ざけた。 こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、コンサートでは再現困難な作品も作り始めていた。 すでに1965年の「」や1966年の「」など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい 曲が発表されていたが、コンサート活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『』は制作に半年 を費やし 、コンサートでの再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された。 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで [ ] 1966年9月、ジョンは映画『』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「」が書かれた。 ほぼ同時期にジョージは音楽の研究のためインドに行き、に対面している。 11月、ジョン・ダンバー の招待 でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、に出会う。 同月、ツアー終了後初めてアビー・ロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「」、「」等を録音。 これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが 、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため 、この内の2曲を先行してシングル発売する事になった。 1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。 レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『』が発売される。 このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。 同月25日、3億人が視聴した 世界同時衛星中継番組『』に出演し、「」を披露する。 同曲は7月にシングル発売された。 「マジカル・ミステリー・ツアー」撮影時(1967年) 8月にジョージがに行き、 ()でらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にの習得の際に触れたインドのに深く関る様になる。 このジョージの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたのレクチャーに参加。 続けてウェールズのでのセミナーに参加する。 しかし27日にが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。 エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、設立が企図される。 9月 からテレビ映画『』の撮影が行われ、年末にで放映される。 は、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤 、12月にイギリスでEP盤が発売される。 1968年1月、ジョージがインドので『』を録音。 ()のサウンドトラックで11月に発売された。 その後メンバー全員でのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。 その間にニール・アスピノールと ()の主導での設立準備を行う。 5月、ニューヨークでジョンとポールがアップル・コア設立の記者会見を行う。 7月 、アニメーション映画『』を公開。 8月、ジョンと妻のシンシアの関係がにより険悪になったことから、夫妻の息子であるにポールが伝えたいと思ったメッセージが元になった シングル「」が発売される。 11月、初の2枚組アルバム『』が発売。 アップル・コア [ ] アビー・ロード・スタジオの入口 1969年1月、 ()で、レコーディングとドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたが始まる。 だがレコーディングの過程でメンバー間の不和が増大。 ポールとジョージが衝突し、ジョージが一時離脱する。 ミーティングの上でジョージは復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの続行に不満が提起され、サビル・ロウに新しく作られたスタジオに移動する。 ジョージの提案でをセッション・プレイヤーとして招聘してセッションを再開したが、結局この時点ではアルバムリリースには至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。 1月30日、映画のラストで使用された屋上でのライヴ・パフォーマンス()を敢行。 その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。 ポールは恋人のの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はを推した。 3月12日にポールがリンダと結婚。 同日、ジョージの家を警察がマリファナ所持の容疑で捜索。 同月20日、ジョンはかねてから愛人関係にあったがジブラルタルで結婚式を挙げる。 4月、にてアルバム『』の録音を開始(発売は9月)。 8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』の写真撮影が行われた。 当日は暑かったためポールはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された。 22日、ジョンの新しい私邸にて全員が揃った最後の写真撮影が行われた。 9月、ジョンとヨーコが結成したがカナダのトロントでコンサートを開催。 ジョージはメンバーに誘われた が辞退し、がギタリストとして参加した。 ジョンが帰英した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた「小規模なギグからコンサートを再開したい」というポールの提案にジョンが「お前はアホか。 俺は辞める」と述べた。 しかしアラン・クレインはジョンの脱退意向を公表しなかった。 にポールがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。 にポールはソロ・アルバム『』を発売。 にのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『』が発売される。 アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』 [ ] サビル・ロウにあるアップル社のビル。 このビルの屋上で、ゲット・バック・セッションの一部であるルーフ・トップ・コンサートを行った。 『』と『』は、収録順と発売順とが逆になっている。 時系列は以下の通り。 1969年1月、。 1969年4月、『アビイ・ロード』録音開始。 8月に終了。 1969年9月、『アビイ・ロード』発売。 1970年5月、『レット・イット・ビー』発売。 ポールの提案 によるは、1969年1月3日から31日にかけて行われた。 このセッションは「新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をにして放送、そして新曲を引っさげライブ活動を再開する」というプロジェクトとして企画された。 撮影されたフィルムは後に編集されて、映画『』として公開されることになる。 しかし、セッションで収録された音源をメンバーは気に入らず 、制作されたテスト盤『ゲット・バック』は公式にリリースされる事は無かった。 その後、『アビイ・ロード』の制作が開始されたため、このセッションはお蔵入りとなってしまう。 録音された楽曲に興味を失ったメンバーはこのプロジェクトを放棄したものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたこともあり、楽曲を廃棄は出来なかった為、ジョンやジョージらの依頼によりがプロデュースを担当。 アルバム『レット・イット・ビー』が完成した。 映画の公開にタイミングを合わせた事もあって 、発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。 一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがで制作した作品であり、完成した翌月に発売された。 この件について、リンゴは「世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だ。 映画は僕やジョンやポールが編集した方がずっと面白いものが出来ただろう」と述べている。 解散 [ ] 、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『』でビートルズからの脱退を発表。 9月に「ジョージがを加入させてベース担当にする」との噂が立ったため、 ポールはにロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。 翌、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人はを断念したため、1961年8月以降約10年間のビートルズの解散が 法的に決定された(詳細はを参照)。 解散直後には、のジョンのアルバム『』収録の「」に代表されるように、ジョンとポールはお互いのソロ作品の中で互いへの非難を繰り広げている。 ジョンは同じくポールと不仲であるジョージをも録音に誘い、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ? 」の歌詞の中で「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「」、ポールのソロ・デビュー曲「」までも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている。 しかし、そういった行為は次第に収まっていき、1980年にはジョンは「3人に親愛を抱いている。 3人が自分の人生の一部を占めている事は事実である」と述べている。 ジョージもビートルズ内部の騒動についての自らの責任に言及し、ポールも「問題が発生しているかどうかとは別に、4人の結束は常に固い 」と述べている。 なお、リンゴだけは、解散以後も他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムの録音に参加している。 リリースのアルバム『』ではテープの上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏した。 ジョンが書いた収録曲「アイム・ザ・グレーテスト」ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏している。 解散後 [ ] 1970年代 [ ] 8月、ジョージの主催による「」がニューヨークので開催され、リンゴも参加した。 そのライブ・アルバムは翌1972年にリリースされ、の年間最優秀アルバム賞を獲得している。 1973年、アップル・レコードより2種類の2枚組ベスト・アルバム『』(赤盤)と『』(青盤)がリリース。 赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位を獲得した。 日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、73年度の洋楽年間チャート1位となっている。 またこの年、世界各国でビートルズの・ブームが起こり、『』や『』などでも改めてビートルズが取り上げられた。 11月にリリースされたリンゴのソロ・アルバム『』は、録音作品の上だけであるものの、解散後初めて4人全員が揃った作品となった。 1980年代 [ ] 12月8日(米国東部時間)。 翌にジョージが発表したジョンの追悼曲「」ではリンゴがドラム、ポール率いるがコーラスとして参加し、ジョンの死後初めて残りのメンバーが共演した作品となった。 、『ギネス・ワールド・レコーズ』が「世界でのビートルズのCD・レコードの総売り上げが10億枚以上」と認定。 3月9日、ビートルズが曲の制作者の名義としていた「」がアメリカの「 ()」に選ばれる。 本来はアメリカ国内のソングライターに対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の殿堂入りとなる。 1990年代 [ ] 、『』の企画が開始され、同年11月、その先鞭としてコンピレーション・アルバム『』がリリースされる。 同アルバムには、ジョンの未発表曲を元に製作された新曲「」の他、デビュー前から1964年ごろまでの未発表曲やデモ、別テイクが収められ、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している。 翌1996年には『』と『』を発売。 1999年に映画『イエロー・サブマリン』のDVDがサウンドを5. 1ch化、使用楽曲のリミックスなどが施されて発売され、初のリミックス・アルバムとなる『』を発売された。 2000年代 [ ] 10月、『』の書籍版が出版。 同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった曲27曲を集めたベスト・アルバム『』が発売。 世界34ヵ国で1位を獲得した。 、ジョージ・ハリスンが肺癌のため死去する。 11月、アルバム『』が発売。 ゲット・バック・セッションで録音した音源をリミックスし、『』でポールが不満を表明していた フィル・スペクターによる追加部分が削除された。 11月、のミュージカルのサウンドトラックとして、リミックス・アルバム『』がリリース。 1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット画を使用した切手が発売。 、イギリス盤オリジナル・アルバム12作と米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDが。 同日『ザ・ビートルズ』までのオリジナル・アルバムのモノ音源と2枚組の『』 を収録したCD BOX『』も発売された。 ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した『ザ・ビートルズ USB BOX』も発売された。 このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐ 44. 1Khz 24 bitで収録された音源の他、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている。 2010年代 [ ] 2010年、オリジナル作品のでのデジタル配信が解禁となる。 『』も2011年2月に配信され、同時にアルバムで1位を獲得した。 6月、『』のリマスター版が配信開始。 11月11日『オン・エア - ライブ・アット・ザ・BBC Vol. 2』が世界同時発売。 、ビートルズ訪米50周年のトリビュート・コンサート"The Night That Changed America: A Grammy Salute To The Beatles"を開催。 ラストではポールとリンゴが「」と「」で共演し会場を熱狂させた。 にはリミックスが施された『ザ・ビートルズ1』が、ミュージック・ビデオ集のDVD&Blu-rayとのセットで再発売された。 、ビートルズのほとんどの楽曲をプロデュースしてきたジョージ・マーティンが死去。 6月17日にで全アルバムのリマスター版と『ラヴ』、『アンソロジー』、『アンソロジー・ハイライト』が解禁された。 、が発売。 日本では2017年11月18日〜2018年1月28日の日程で「ビートルズ展」が開催され、武道館公演のプログラムなどのほか日本初公開アイテムを含む約400点を展示されている。 、が発売。 、が発売。 翌付ので1位を獲得し、以来の1位奪還を果たす。 ディスコグラフィ [ ] 詳細は「」を参照• 本節はバンドの活動期間中に英国にて発売したオリジナル・アルバムおよびシングルのみ記載。 オリジナル・アルバム [ ]• 「」は当該項目を参照。 発売日 邦題 原題 最高位 全英1位獲得回数 50周年記念盤を含む 1963年3月22日 1 30 1963年11月22日 1 21 1964年7月10日 1 21 1964年12月4日 1 11 1965年8月6日 1 9 1965年12月3日 1 8 1966年8月5日 1 7 1967年6月1日 1 28 1968年11月22日 1 8 1969年1月13日 3 0 1969年9月26日 1 18 1970年5月8日 1 3 オリジナル・シングル [ ] 発売日 邦題 原題 全英チャート最高位 全英1位獲得回数 1962年10月5日 A. 17 0 1963年1月11日 A. 2 0 1963年4月12日 A. 1 6 1963年8月23日 A. 1 7 1963年11月29日 A. 1 5 1964年3月20日 A. 1 3 1964年7月10日 A. 1 3 1964年11月27日 A. 1 5 1965年4月9日 A. 1 3 1965年7月23日 A. 1 3 1965年12月3日 A. (両A面) A. 1 5 1966年6月10日 A. 1 2 1966年8月5日 A. (両A面) A. 1 4 1967年2月17日 A. (両A面) A. 2 0 1967年7月7日 A. 1 3 1967年11月24日 A. 1 7 1968年3月15日 A. 1 2 1968年8月30日 A. 1 2 1969年4月11日 A. 1 6 1969年5月30日 A. 1 3 1969年10月31日 A. (両A面) A. 4 0 1970年3月6日 A. 2 0 評価と影響 [ ] 音楽的評価と影響 [ ] デビュー当初はアイドルグループと認識される傾向が強かったが、その時期においても音楽的評価はなされていた(ウィリアム・マンが誌で絶賛する一方、ラジオ司会者のブライアン・マシューが批判するなど賛否両論があった )。 先輩格の同業者では、が才能を認める発言をしており、のは「抱きしめたい」のファンだったと述べている。 ビーチ・ボーイズのはビートルズの勢力拡大に対してメンバーとミーティングを開き、市場維持のために自分達の音楽性を変化させる事を提案している。 なお、後年リリースしたビーチ・ボーイズのアルバム『』は、逆にビートルズの『』に影響を与える事となった。 後進のミュージシャンでは、やが称賛と共に、ビートルズがポピュラー音楽を変容させた点を挙げており、のもビートルズの前衛性を評価している。 他にも、、など、様々なジャンルのミュージシャンがビートルズのファンだった事を打ち明けている。 1967年にリリースされた『』の音楽的な評価は特に高く、それまでビートルズに批判的または無関心だった層にも好評を得て、ポピュラー音楽そのものを変革した作品と評された。 リンゴは 「1966年〜67年頃のバンドは、ほぼ全てビートルズに影響されていて、それらのプロデューサーは多かれ少なかれ自分の担当するバンドの音をビートルズに似せようとしていた」と述べている。 自作自演 [ ] ビートルズのレパートリーは、オリジナル曲と既製のロック・ポップス曲のカバーとが有るが、活動期間中にイギリスで発売されたのシングルは全てメンバーの自作曲である。 チャック・ベリーなど自作自演のロックミュージシャンは以前から存在したが、1962年頃の音楽産業界の主流ではなかった。 当時はプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携(ティンパンアレイ方式)が行われており、ジョージ・マーティンもその慣習をビートルズに伝えている。 ビートルズも、当初はマーティンの発案で外部の作家による「」をデビュー・シングルとする予定だったが、メンバーは自作曲のシングル発売を頑として主張し 、結果として同じ日にレコーディングされた自作曲「」でデビューした。 自作自演は以降のイギリスの音楽産業界に次第に浸透していく事になる。 代表的な例が、ビートルズより少し後にデビューしたであり、とがそれまでの既成曲優先から方向を変えて自作自演するようになったのは、ビートルズのメンバーから作曲について直にアドバイスされたからだった。 イギリスとアメリカの音楽産業の構図の変化 [ ] ビートルズのデビューおよびイギリスでの活動は、イギリスの音楽産業そのものにも変化をもたらしている。 に在籍していたは 「ビートルズ以前のイギリスの芸能界はロンドンが中心で、地方とは分け隔てられた状態だった。 それをリヴァプールのバンドであるビートルズが突破して市場の勢力が一変し、その結果、マンチェスターのバンドであるホリーズにもチャンスが巡ってきた」と述べている。 次の変化はアメリカで起こっている。 1963年まで、イギリスのポップ・グループの曲がアメリカのビルボード・シングル・チャートで1位になったのはの「 ()」が唯一の例で、それも2作目以降はヒットを持続させていなかった。 しかし1964年初頭、キャピトルが初めてリリースしたビートルズのシングル『』がビルボードで1位となった後、4月4日には上位5曲をビートルズが占め、翌週の11日にはビートルズの曲14曲が100位以内にチャート入りするという事態が生じた。 このビートルズの人気によって障壁が打ち破られ 、この後、イギリスの多くのバンドがアメリカに進出を始める。 や、、、、、などが進出したこれらの一連の流れは、「」と呼ばれている。 この状況に対し、ファン層が異なっていた を除いて、当時のアメリカ側の音楽関係者の多くは対応策を迫られ、状況の分析と打開に向けて動き始めることになった。 ビートルズへの影響 [ ] ビートルズ自身は自分たちは「多くの音楽その他の事象に影響されている」と述べている。 1950年代に活躍した先駆的ミュージシャン達には、メンバー各人がアマチュア時代から影響を受けたと述べており、中でも、、の3人が挙げられている。 特にチャック・ベリーは、音楽も歌詞の内容も評価が高い。 一方、エルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードは音楽に加えてスター、アイドルとしての要素にも憧れていたと述べている。 ただし、プレスリーについては、ジョン もポール も1stアルバム『』の頃については高く評価しているものの、除隊後の作品は興味を持てない(ポールの発言 )と述べている。 ジョンはプレスリーとの対談において、「昔のスタイルに戻るつもりはないのか」と進言している。 それ以外にも、、、、、、等の影響があったと述べている。 なおの「」に対する評価は分かれていて、ポール とジョージ とリンゴ が気に入っているのに対し、ジョンは「印象は余り強くなかった」と述べている。 デビュー後の早い時期に影響を受けたのはで、1964年1月のフランス公演の際に現地のDJから『』を手に入れ、それ以来ずっと聴き続けた。 同年に行われた2回目のアメリカツアーで本人に面会した時は、全員がディランのデビュー・アルバム『』を持っていた。 特にジョンは強く傾倒しており、1965年に発表された「」を自分のディラン時代の作品だと述べている。 「」を始め、ビートルズにインド音楽の影響が表れたのは、ジョージがのレコードに影響された事がきっかけとなっている。 さらにの通り、『』はザ・ビーチ・ボーイズの『』の影響を受けている。 ジョージ・マーティンの功績 [ ] 1962年6月6日、ジョージ・マーティンはビートルズのパーロフォンでのオーディションを担当。 同年10月に発売されたデビュー・シングル『』から、最後に録音されたオリジナル・アルバム『』までのプロデュースを担当し、音楽性に大きな影響を与えた。 デビューに際しては選曲でビートルズのメンバーと意見を異にしたが、シングル『』以降はメンバーのオリジナル曲を優先してシングル化している。 マーティンは当初メンバーのうち誰か1人をメイン・ボーカルに設定するつもりだった。 しかし結局、マーティンはビートルズにこの形式を導入せず、曲によってボーカル担当が異なるスタイルを取り入れた。 クラシック楽器の使い方をメンバーにレクチャーするといった役目も担っている。 1966年8月のツアー中止以降の、スタジオ・ワークを重視した時期には、「」のテンポと調が異なる2テイクを1つに編集したり、アルバム『』に収録された「」のオルガン録音でのテープ編集を手がけている。 なお、発売順としては最後となったアルバム『』は、最終的にフィル・スペクターが完成させたが、1969年1月からトゥイッケナム・スタジオで開始されたゲット・バック・セッションにはジョージ・マーティンが参加し 、テスト盤として制作されたアルバム『ゲット・バック』も、ジョージ・マーティンがグリン・ジョンズと共同プロデュースしている。 ブライアン・エプスタインの功績 [ ] リヴァプールのNEMSレコード店 の責任者だったは、1961年に地元のバンドであるビートルズの存在を知り、12月にマネージメント契約を締結した。 当時のイギリスの音楽界はが中心であり、地方都市を拠点とするローカル・バンドがレコードをリリースしたり、全国ツアーを行うといった活動は、基本的に行われていなかった が、エプスタインはロンドンにあるレコード会社を廻ってビートルズを売り込み始めた。 この売り込みに対して大手レコード会社のがオーディションに応じているが、これはエプスタインが大手レコード店NEMSの責任者である事が影響していた。 1962年1月に受けたデッカのオーディションは不合格になるが、エプスタインは引き続きレコード会社を廻って売り込みを続け、その結果ジョージ・マーティンによるパーロフォンでのオーディションを受ける事になる。 レコードデビュー後は、『』の出演契約締結などでアメリカへの進出を実現させ、ビートルズの世界進出に営業面で貢献している。 1966年8月のコンサート活動終了後も、1968年に公開されたアニメーション映画『』の制作契約を結んでいる。 特にと称されたファンの一部が、真夜中にも関らずビートルズが宿泊するホテルの周囲を4000人ほどで取り囲んで喚声を上げたりするといった騒動がタイムズ誌などで報道されている。 日本でも、の公開時に、地方上映を待てない百人以上の未成年のファンが、保護者の承諾を得ないまま上京して警察に補導されている。 風紀の乱れ、青少年への悪影響といった不当な批判が増大していき、母国イギリスでは1965年のMBE勲章の叙勲時にその批判が顕在化した。 ビートルズへの叙勲に抗議する形で勲章を返却する者も現れ 、この時は863個の勲章が返却された。 同、はビートルズの公演を拒否した。 さらにアメリカではジョンのキリスト発言に対する批判、日本では来日前にの「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、とによる「薄汚い西洋の連中に貴重な外貨を使うな」発言 など、不当な批判や抑圧があった。 またやを中心とした国家は、ロック音楽を「による精神汚染」とみなし、ソ連ではそのレコード発売には政府からの許可が下りなかった。 また、当時やなどアジアの国家、ではビートルズは話題にすらならず、コンサートで立寄ることどころかレコードが売られたことさえなかった。 映像作品 [ ] ビートルズ側が制作した作品 [ ] 解散前にビートルズ側が制作した映像作品は5本ある。 この内、ブライアン・エプスタインがユナイテッド・アーティスツと契約した劇場用映画が『』(1964年)、『』(1965年)、およびエプスタインの死後に制作・公開されたアニメ『』(1968年)の3本である。 テレビ映画『』はポール主導で1967年に制作され 、同年暮れにで放映された。 ドキュメンタリー映画『』は1969年に撮影されたが、公開は翌1970年となった。 2019年現在、『レット・イット・ビー』以外の作品はソフトが市販されている。 ドキュメンタリー作品 [ ] に記録映画『 ()』(1982年)が米の制作で公開され、その後ビデオソフトとしてリリースされた。 には計11時間におよぶ公式ドキュメンタリー『』が制作され、2曲の新曲、未発表曲、アウトテイクを集めたアルバムと共に発表された。 には初期のアメリカ公演の模様を収録した『 ()』が発表されている。 関係者のドキュメンタリーも作られており、2012年には映画『プロデューサー ジョージ・マーティン〜ビートルズを完成させた男〜』が、2013年にはビートルズのマネージメント・スタッフの一人でデビュー前からの知己でもあったを主人公にした映画『』が公開されている。 には、コンサート活動時代を中心にした公式ドキュメンタリー映画『』が公開された。 9月には、北米にて配給の公式ドキュメンタリー映画『The Beatles: Get Back(邦題未定)』が公開される予定となっている。 なお、1988年に公開されたジョンの伝記映画『』は、一部にビートルズ時代の映像が収録されている。 ビートルズを題材にした映画 [ ] のビートルズでの活動とアストリットとの関係と死を描いた映画『』が1994年に公開された。 2000年には、ジョンの半生と結成からビートルズがアメリカを席捲するまでを描いたテレビ映画『』、1976年にの全米ツアーが開始したポールがジョンの家を訪れたというエピソードを元にしたテレビ映画『』が放送された。 2011年にはの企画で、が監督するビートルズ映画の制作が発表された。 2014年には、世界中のファンが「自分にとってのビートルズ」を語る『』(監督)が発売された。 2019年にはビートルズが消えてしまった世界で、唯一ビートルズの存在を覚えているシンガーソングライターの活躍を描いた『』が公開された。 プロモーション映像 [ ] ライブ活動終了後のビートルズは、新曲のプロモーション用にイメージ映像を撮影してテレビで放送するという方法を取り始めた。 「」や「」などの映像が作られ、ライブによるプロモーションの代替手段として取り扱われる。 ポール主導で制作されたテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』は、娯楽作品としての評判は芳しくなかったが、『』において、ジョージが冗談交じりに「は僕らの発明さ」と語っているように、芸術映画・音楽映像作品としては評価する向きもあり、などが、映画学校の学生時代に同作に注目していたと述べている。 ビートルズ作品の著作権 [ ] ビートルズのメンバーによる楽曲のの多くは、以下の経緯で所有者が何度も変わっている。 に登録された。 同作は全英2位のヒットとなり、ジェイムズとエプスタインの関係は強固なものとなった。 ノーザン・ソングス [ ] エプスタインはこのヒットを機に、ビートルズ自身の音楽出版社を設立する事を決め、1963年2月22日に 『 ()社が設立された。 同社はビートルズのオリジナル楽曲の著作権を管理するために立ち上げられたジェイムズ DJM とレノン、マッカートニー、エプスタイン によるであった。 しかし、同社がビートルズと行った著作権契約は、当時メンバーとエプスタインが著作権に関する充分な知識を持っていなかったこともあり 、利益分配比はDJMが5割、レノン、マッカートニー、NEMS合わせて5割と、ビートルズにとって不利なものであった。 後にマッカートニーは「MOJO」誌2005年9月号のインタビューにおいて、このときのノーザン・ソングス社の契約について「ジョンと僕は騙されたんだ、絶対にね。 (中略)僕等は奴隷契約書に署名させられたわけさ」と発言している。 1965年2月にノーザン・ソングスは税金対策の為に500万株をに。 1967年のブライアン・エプスタインの死後は弟のクライブ・エプスタインが取締役を引き継いだ。 ハリソングス [ ] 「」も参照 1964年、ジョージ・ハリソンはNEMSと共同で ハリソングス Harrisongs Ltd. という音楽出版社を立ち上げた。 ハリソンが同社を設立した背景にはノーザン・ソングスへの不満があり、1969年に発表されたハリソンの作品「」の歌詞は、ノーザン・ソングスの不当な契約を皮肉ったものである。 そうした経緯から、ハリソングスの契約はノーザン・ソングスよりも作家の取り分が多くなっていた。 1968年のアルバム『』からは、ハリソンの楽曲はノーザン・ソングスではなくハリソングスに、リンゴ・スターの楽曲もリンゴが設立した音楽出版社スタートリング・ミュージック Startling Music Ltd. に登録される事になり、それ以降ノーザン・ソングスに登録される楽曲はレノン=マッカートニーの曲だけになる。 ATV [ ] 1969年6月、ジェイムズはすでにノーザン・ソングスの株を数パーセント所有していた ()に自身が持っていた株を売却。 残りの株を巡ってビートルズとATVで争いが始まったが、ビートルズはこれに敗れ、ノーザン・ソングスの筆頭株主はATVとなった。 そしてこの時のビートルズのビジネスマネージャーだったアレン・クラインはビートルズの持ち株をジェイムズの倍の値段でATVに売却し、決着をつけた。 これにより多くのビートルズ楽曲の著作権は作者であるビートルズの元を離れた。 1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、することとなるが、このATVによるノーザン・ソングス買収とそれにまつわる金銭問題はその要因の一つとなった。 また、1971年にマッカートニーが発表したシングル「」は表記上は妻との共作となっており、同年にレノンが発表したシングル「」も妻との共作となっているが、このアーティスト名の表記変更はATVとの権利問題のためでもあった。 マイケル・ジャクソン [ ] 1985年、ノーザン・ソングスの持ち主であるATVが売りに出され、当時27歳のが約4750万ドルで購入した。 これ以降、ジャクソンがビートルズの版権を所有する事になったが、その後「」に版権が移り、ジャクソンはその版権から得る権利から、持ち分に基づく配当として収益を受けるという形になる。 ちなみに、マイケルに版権ビジネスを教えたのはポールだと言われている。 にマイケル・ジャクソンは死去し、その後、に至るも版権を巡って様々な報道がなされている。 DJMは1986年に社に売却され、ポリグラムは1999年にに買収されたため、この2曲だけは2010年現在ユニバーサル・ミュージックが所有している。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 冠詞付きの「ザ・ビートルズ」と表記される場合もある。 "ファブ・フォー"と読む。 FabはFabulousの略で、「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味を持ち、同名の 、そしてこれをもじった というも存在する。 また、の女子団体総合で金メダルを獲得したアメリカ代表選手(5人)が「The Fab Five」と呼ばれている。 『』について、発売当時(1967年)のイギリスではEP(2枚組)で発売していた。 詳細は該当する項目を参照• ただし、通算1位獲得数では映画『』のサウンドトラックの70週と『』のの44週に次ぐ3位。 なお『南太平洋』のサウンドトラックは1958年から1959年にかけて第1位を70週間連続獲得しており、全英アルバムチャート連続一位獲得数の歴代1位となっている。 詳細はを参照。 バンド活動期間である1962年10月の『ラヴ・ミー・ドゥ』から1970年3月の『レット・イット・ビー』まで。 英語での複数形で、この他にスポーツのの意味がある。 1953年公開。 ビートルズはバイクを乗り回している女性を指すスラングとして、の台詞に登場する。 「Beetle」という英単語には、かぶとむしだけでなく、、も含まれ、日本でのかぶとむしのイメージと違い、英米では嫌われている昆虫類(害虫)のひとつでもあった。 ただし、「KAWADE夢ムック 文藝別冊『[総特集]ジョージ・ハリスン』」の年表には「ジョージが『出生届では2月25日だが実際は2月24日午後11時42分生だ』と述べている」との注釈がある。 1964年にリンゴ・スターがにより入院した際の代役。 なおは当初リンゴの加入を知らず、というドラマーを手配していたので「」では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルにはリンゴの、アルバムにはアンディのバージョンが収録されている。 「」や「」では、6弦ベース()を演奏している。 ただし、約一週間で復帰し、当時は公にされなかった。 この件とは別に「」、「」、「」、「」のドラムスもポールが演奏している。 ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏を行っている。 インストゥルメンタル曲「」を除く。 どちらがメインのメロディーを担当するかは曲により異なっている。 ビデオ版のザ・ビートルズ・アンソロジーにはジョンがハーモニカを吹いている「ラヴ・ミー・ドゥ」の演奏の記録映像が収録されている。 ポールはジョンと出会った頃からピアノを演奏する事が出来た。 詳細は「」を参照。 シタールを通じて知ったインド哲学への興味がジョージから他のメンバーにも伝わり、への傾倒につながる。 シングル・カット、シングル収録曲のレノン=マッカトニー名義と重複するものがある。 ジョンが作った曲の一部には、ジョンが歌えない高いキーで歌う部分を、メンバーで一番高い声の出せるポールに歌わせている曲がある。 1997年以降は「ジョン・レノン」とクレジットされている。 ジョージによると、一時期クオリーメンにも在籍していた。 しかし、当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。 同年4月23、24日。 ジョンとポールの2人がユニット名「ナーク・ツインズ」としてポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏している。 この時点ではシンガーそのものは未定だった。 この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。 交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はポールがドラムスを叩いたこともあった。 初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。 リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもあった。 写真家。 学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p. 58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者であり 、アルバム『』のジャケットのアイディアの元となった写真の撮影者でもある (ただし、ジャケットの写真そのものはロバート・フリーマンが撮影している)。 また、生前のサトクリフと恋愛関係にあり、映画『』ではヒロインとして描かれている。 カナ表記は、ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)では本文(p. 52その他)で「アストリット」、p. 358のCREDITでは「アストリッド」と、両方の表記が存在する。 元々はポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。 またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。 その縁でを持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロード・マネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をする事になる。 ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なので2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。 ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年に死去。 詳細はを参照。 後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えている。 これらは1995年に発売した『』に収録されている• ただし、ミュージック・ウィーク誌は最高位2位であったため、2000年にリリースされたチャート1位を獲得したシングル曲を集めた『』には収録されていない。 このステージでの最後の曲「」の直前にジョン・レノンが「安い席の人々は拍手を。 残りの人々は宝石をガラガラ鳴らしてください」と観客に言っている。 ただし、ビルボードで日付上で1位になったのは2月1日。 を参照。 本作以降も『』の監督を担当。 『』では監督に加えてプロデューサーも兼任し、1991年には『』の監督を担当している。 公開当時の邦題は「 ビートルズがやって来るヤァ! 発売当時の邦題は「 ビートルズがやって来るヤァ! 発売当時の邦題は「 4人はアイドル」。 ただし、この人数には異説がある。 ビデオ版『』ではニール・アスピノールが55000人と話しているが、ポールは56000人、リンゴは60000人、ジョージは70000人だと聞いたとコメントしている。 ただし、最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった。 こののツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。 のビートルズ最後のコンサートもという野球場である。 シェイ・スタジアム自体もその後、、などがコンサート会場として使用している。 2009年にシェイ・スタジアムは解体され、その前年である2008年に開催されたのコンサートが最後となった。 なお、このコンサートにはポールがゲスト出演している。 詳細はを参照の事。 朝日新聞社編『ビートルズの社会学』()など多くの本が出版されている。 この中では「高校野球が終って選手たちが泣けば大人は感動するが、ビートルズが終って少女たちが泣けばおかしいと言う。 少しもおかしくはない。 原理は同じだ。 いいじゃないか」と書いている。 『ザ・ビートルズ・アンソロジー』(日本語版)p. 219のニール・アスピノールの発言。 ただし、同p. 220でジョージは「20万人ぐらい居たのではないか」と発言している。 テレビ出演時のライブ演奏やの一環として行なわれたなどは除く。 ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載されたのPAは、最大25600ワットの出力が可能だった。 初期のアルバムは12時間で録音した。 の前夫。 発売当時のアメリカにおいて、EP盤方式が廃れていたことにより、A面にサウンドトラック6曲を収録し、B面にシングルとして発売されていた5曲を収録したLP盤として発売。 後のCD化ではこちらのLP盤が採用された。 本作ではがアシスタント・プロデューサーとして参加している。 当初のタイトルは「ゲット・バック」だったが、4月のポール脱退で事実上解散したことを受け、アルバム『レット・イット・ビー』として発売された。 ただし、このプロデュースについては後に問題が発生した(詳細はおよびを参照)。 ベースはが担当。 12月9、16、23日。 を参照。 ステレオ盤の『パスト・マスターズ』に対応したアルバム未収録曲集。 ビデオ「 ()」に収録された音楽評論家Wilfred Mellersの解説によれば、それまでのロックやポップスは踊るための音楽だったが、同作によって聴くに値する音楽になった。 ジョージは「メンバーが聴いた音楽は好悪の別なく全てビートルズの音楽に影響を与えている」と述べていて 、ジョンは「ビートルズ成立理由は通っていた学校の校風や住んでいた伯母の家の棚に並んでいた書籍にまで及ぶ」と述べている。 リブァプールで父親が経営していたNEMSという家具店のレコード部門。 この経緯については諸説ある。 詳細は、を参照の事。 ビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ」に収録されたビル・ハリーや ()のコメントによれば、当時のイギリスの芸能界はロンドンの芸能関係者が取り仕切っており、地方都市のバンドは彼ら自身も関係者もレコードをリリースするという考え自体が存在しなかった。 ただし、になってイスラエルは謝罪の意を公式に表明した。 これを受けてポールは同年9月に同国での公演をおこなっている。 詳細はを参照。 ただし、実際には、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳された版のなどが販売され、当時も多くの若者に親しまれていた。 なお、にポールが行ったの首都ののでのコンサート「ライヴ・イン・レッド・スクウェア」では、その編集映像に国防相(1953年生まれ)のインタビューが収録されたが、その中でイワノフは「10代の頃からのビートルズファン」と自己紹介しており、「」も演奏されたコンサートにも大統領と伴に来場した。 詳細は映像ソフト『ライヴ・イン・レッド・スクウェア』及び『クレムリンを揺るがせたビートルズ』を参照。 庄司英樹は著書「ビートルズの復活」p. 220で、このATVの買収を「乗っ取り」と称している。 出典 [ ]• 2020年3月3日閲覧。 2020年5月20日閲覧。 Penske Media Corporation. 2010年12月3日. 2020年2月8日閲覧。 Business Insider Insider Inc. 2019年1月31日閲覧。 GRAMMY. com. 2020年2月8日閲覧。 『僕はビートルズ』第1巻・巻末に記載されている宮永正隆の解説。 Hotten, Russell 2012年10月4日. 2019年1月31日閲覧。 181-184. , p. 1992. 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この項目では、ビートルズの楽曲について説明しています。 ニーナ・シモンのアルバムについては「」を、の小説については「」をご覧ください。 「」 B面• 「 ヒア・カムズ・ザ・サン」• 「」 ミュージックビデオ - 「 ヒア・カムズ・ザ・サン」( Here Comes The Sun)は、作のフォーク・ロック・バラード。 1969年に発表されたのアルバム『』に収録された。 「」や「」と並ぶ、ジョージ作の傑作ナンバーである。 解説 [ ] この曲は、での打ち合わせに疲れていたジョージが、そこを抜け出して親友のの家へ遊びに出掛けた際、その年初めての春らしい日差しを感じていたら自然に歌詞とメロディラインが生まれ、エリックのを使用して庭を歩きまわりながら作ったとされている。 ジョージはこのアルバムで当時は珍しかったを演奏披露した。 次曲の「」と共にモーグ・シンセサイザーの特徴が生かされた曲といえる。 に収録される予定であったが、EMIが許可を出さなかった。 に『アビイ・ロード』発売50周年を記念したが公開された。 映像は、曲名の示すとおりにアビー・ロード・スタジオの第2スタジオを朝日が照らすところからスタートし、が所有していたアーカイブ映像やポールによって提供された写真(元妻のが撮影)などが使用されている。 音源は、同日に発売された『アビイ・ロード 50周年記念エディション 』に収録の2019年最新ステレオ・ミックスが使用された。 レコーディング [ ] 「ヒア・カムズ・ザ・サン」のレコーディングは、1969年に開始された。 この曲のレコーディングにおいて、は自動車事故で負傷していたため欠席しており 、(とガイド・ボーカル)、()、()の編成でリズム・トラックが13テイク録音された。 この日のセッションの終盤で、ジョージはアコースティック・ギターのパートの再録音に1時間を要した。 にジョージのと、ジョージとポールのが録音された。 この時点でトラック数がいっぱいになったため、リダクションが行なわれた。 にと 、とにを通した、に 、にがオーバー・ダビングされて完成となった。 なお、本作の最終ミックスにおいて使用されなかったギターソロが後に発見されている。 リリース [ ] 「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、1969年にリリースされた11作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『』のB面1曲目に収録された。 アルバムからシングル・カットされた「」と共に、ジョージがと肩を並べる作曲家とさせた作品となっている。 10年後のに発売されたジョージのソロ・アルバム『』には、本作の続編である「ヒア・カムズ・ザ・ムーン」が収録されている。 に日本・・でシングル「」のB面曲としてシングル・カットされた。 イギリスではシングル・カットされたことはないが、にのルールが改訂され、ダウンロード販売された楽曲もチャート・インするようになった。 2010年ににおいてビートルズの全楽曲がダウンロードできるようになり、本作を含めたビートルズの数曲がチャートインを果たした。 アメリカでも付のにて最高14位を獲得した。 に発売された『アビイ・ロード 50周年記念エディション 』の「2CD」及び「スーパー・デラックス・エディション」のDISC2には、本作の第9テイクが収録された。 演奏 [ ] クレジットはによるもの。 ビートルズ• - 、、、、、• - 、、ハンドクラップ• - 、ハンドクラップ その他• 演奏者不明 - 4本、4本、、2本、2本、2本、2本• - 、 主なカバー・バージョン [ ]• - 1970年のアルバム『』に収録。 - 1970年のシングル。 ウィ・ファイヴ - 1970年のアルバム『Catch the Wind』に収録。 - 1971年のアルバム『』に収録。 - 1971年のアルバム『』に収録。 シングルカットされ、ビルボード誌最高位16位を記録。 チャーリー・バード - 1971年のアルバム『For All We Know』に収録。 スティーヴ・ハーレー - 1976年のシングル。 全英最高位10位を記録。 - 1980年のコンピレーションアルバム『』に収録。 - 1971年12月20日発売のライブ・アルバム『』に収録。 ジョージの歌とギターにがギターで加わった。 - 1996年のアルバム『』に収録。 - 2007年公開のアニメーション映画『』の中で歌った。 その他 [ ]• 日本の幼児番組『』()のBGMに、この曲の旋律が一部用いられていた。 を称える歌として、セルフ・カヴァー(替歌)を披露していた。 2001年12月に行われた『2001 ・クワガタムシVSカブトムシ』では、開催直前にジョージ・ハリスンが亡くなったため、桑田が「天国のジョージに黙祷。 」と言った後にこの曲をワンフレーズ流して黙祷を捧げた。 年越しフェスティバル『』のエンディングでは、初日の出にかけて毎年流されている。 ペーテルブレイナーがこの曲をバロック風に編曲している。 1980年代~90年代にかけて、 UMK の番宣番組『UMKハイライト』のオープニングで、この曲の一部が用いられていた。 『』()のエンディングで暫く使われてた時期があった。 『』(テレビ朝日)のオープニングで、2020年2月14日 - 2月28日の期間、シェリル・クロウによるカバーが使用された。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2002 [1980]. I, Me, Mine. San Francisco, CA: Chronicle Books. 144. Klosterman, Chuck 2016-05-23. 2018年10月14日閲覧。. NME Japan. 2019年9月27日. 2019年9月29日閲覧。 Revolution in the Head: The Beatles' Records and the Sixties Second Revised ed. London: Pimlico Rand. 356. 2001. The Beatles Diary Volume 1: The Beatles Years. London: Omnibus Press. 347. 2005 [1988]. The Complete Beatles Recording Sessions: The Official Story of the Abbey Road Years 1962—1970. London: Bounty Books. 178. The Beatles as Musicians: Revolver Through the Anthology. New York, NY: Oxford University Press. 258. Lewisohn, Mark 2005 [1988]. The Complete Beatles Recording Sessions: The Official Story of the Abbey Road Years 1962—1970. London: Bounty Books. 180. Lewisohn, Mark 2005 [1988]. The Complete Beatles Recording Sessions: The Official Story of the Abbey Road Years 1962—1970. London: Bounty Books. 190. Winn, John C. 2009. That Magic Feeling: The Beatles' Recorded Legacy, Volume Two, 1966—1970. New York, NY: Three Rivers Press. 317. andpop. com 2012年. 2012年1月30日時点のよりアーカイブ。 2019年10月1日閲覧。 Michaels, Sean 2012年3月28日. の2014年2月23日時点におけるアーカイブ。 2019年10月1日閲覧。 Hertsgaard, Mark 1996. A Day in the Life: The Music and Artistry of the Beatles. London: Pan Books. 297,300. Woffinden, Bob 1981. The Beatles Apart. London: Proteus. Miles, Barry 2001. The Beatles Diary Volume 1: The Beatles Years. London: Omnibus Press. 355-56. Womack, Kenneth 2014. The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four. Santa Barbara, CA: ABC-CLIO. 385, 690. 2018年5月11日時点のよりアーカイブ。 2019年10月1日閲覧。 ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2019年8月9日. 2019年10月2日閲覧。 Winn, John C. 2009. That Magic Feeling: The Beatles' Recorded Legacy, Volume Two, 1966—1970. New York, NY: Three Rivers Press. 317. 外部リンク [ ]• [ ]• from AllMusic• of Here Comes The Sun.

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ジョージ・ハリスンがエリック・クラプトンの家に遊びに行って出来た名曲

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後藤コータローas John• 近藤マコトas Paul• 岸本シューヘイas George• 2008年3月、大阪のビートルズ専門ライブハウス「キャヴァーン・クラブ」(英国リバプールのキャヴァーン・クラブの姉妹店)などのハウスバンドを歴任したキャリア豊富なメンバーによりバンド結成。 活きの良いロック、難解なコーラス曲、複雑な効果音使用曲などもビートルズらしく聴かせ、楽しめるステージが信条。 老若男女を問わず幅広いオーディエンスの根強い支持を得ています。 通常はリクエストによりステージを構成。 レパートリーも豊富です。 イベント、ライブハウス、ホール、ホテル、レストランなど出演多数。 メンバーはそれぞれの活動も精力的に継続中です。 JOYTOYS 2019年、満を持して活動再開! The Lady Birds• 鶴田康天as John• 石橋謙一郎as Paul• 岸本シューヘイas George• 太陽に向かって上へ上へと飛んでいく事から縁起がいいと言われています。 まさにヒア・カムズ・ザ・サンとの相性は抜群!? 極めて個性的な4人が織りなすビートルズサウンド、そして繊細なハーモニーを堪能しよう! Rarities レアリティーズ)• 後藤コータローas John• りゅうじas Paul• トッポas George• はたやんas Ringo の4人からなる、 2016年結成のBeatles tribute Band。 レアな曲にも光をあてよう!を合言葉に その名もレアリティーズと命名。 後藤コータロー• 鶴田康天(鶴ちゃん)• トミー• モネ渡辺• ジョン松本 ポールパート• 近藤誠• バティ• 徳田りゅうじ• 石橋謙一郎• ノブ ジョージパート• 岸本シューヘイ• 田月俊次• トッポ リンゴパート• 森田タクト• はたやん• 森本コウジ• にんにん• タッキー• ささやん.

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