山勘 由来。 【刀剣ワールド】山本勘助|戦国武将

やまかん【山勘】の名前の由来とは?|名前の由来語源なら《ユライカ》

山勘 由来

山本勘助 山本勘助は、1493年(明応2年)、もしくは1500年(明応9年)に三河国(現在の東部)、または駿河国(現在の東部)で生まれたと言われています。 諸国を巡って兵法(へいほう:戦闘に関する学問)や築城術などを極めましたが、色黒で隻眼(せきがん:片目)、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人(ろうにん:浪人)のままでした。 山本勘助の生涯については、いまだ解明されていないことも多く、伝説と謎に満ちた人物として現代に語り継がれています。 現に、山本勘助について記載された書物は、唯一「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:江戸時代に編纂された軍書。 から[たけだかつより]までの功績や合戦、刑政、軍法などを記した書物)のみです。 甲陽軍鑑によると、山本勘助の幼名は「源助」(げんすけ)。 の家臣、「山本貞幸」(やまもとさだゆき)の子として誕生し、12歳で牛久保城(愛知県)の城主牧野家家臣、「大林勘左衛門」(おおばやしかんざえもん)の養子となり、「勘助春幸」(かんすけはるゆき)に改名しています。 一説によれば、大林家で過ごしたこの時代に兵法を学んでいたとされているのです。 20歳になると、山本勘助は武者修行の旅へ出ます。 5年後25歳の頃には、伊賀忍術のルーツとも呼ばれている山伏兵法(やまぶしへいほう)を学ぶために、真言宗の総本山「高野山」に参籠。 併せて摩利支天像(まりしてんぞう)を授かり、自身の守護神に定め、その後も四国、山陰、山陽、九州などの諸国を巡り、各地の大名に仕えながら武術や兵法の修行に励みます。 全国にある城を検分し、築城に関する知識を身に付けたのもこの頃のことです。 大林家に帰参したのは34~35歳。 武者修行から戻ると大林家に男子が誕生していたため離縁し山本姓に改め、次は関東方面に武者修行の旅へ出ます。 1536年(天文5年)には、駿河の「」(いまがわよしもと)への仕官を希望しますが、今川家では山本勘助の醜い外見や、片目及び手足が不自由であったこと、供ひとり連れていなかったことから、追い返されてしまいます。 これは、体裁を気にする今川氏に山本勘助が仕えることを疎んじ嫌ったことが原因です。 今川氏への仕官を諦めた山本勘助は、自身を雇ってくれる仕官先を求めて再度放浪したのち、さらに牢人暮らしは続きました。 そして運命の出会いは、1543年(天文12年)。 山本勘助の噂を聞きつけたのちの武田信玄、まだ23歳の若き日の「武田信晴」(たけだのぶはる)に、破格の知行200貫で召し抱えられてようやく、50歳前後にして仕官することが叶ったのです。 当時、武田軍は甲斐を統一したばかりであり、他の国への進出もまだ着手以前。 山本勘助の登場は、武田信玄、及び武田軍の起爆剤であり、躍進の原動力になったことは言うまでもありません。 しかし、武田信玄と言えども、素性の分からない者を破格の待遇で登用するだろうか?という疑問は残ります。 実は山本勘助の家系は、「清和源氏」(せいわげんじ)の流れを汲む駿河源氏・吉野氏の子孫だとする説があり、吉野氏の親戚である一門・穴山氏とのつながりから推挙されたとも言われています。 武田信玄と上杉謙信 武田信玄に仕官してからの山本勘助は、持ち前の情報収集能力と天才的な戦略、優れた築城術で頭角を現し、活躍しました。 1546年(天文15年)、北信濃(現在の北部)の豪族・村上氏の攻めに従軍します。 村上軍の激しい応戦で武田軍は総崩れとなりますが、山本勘助の策で形勢逆転、武田軍を勝利に導きました。 この戦功により、山本勘助は、知行800貫の足軽大将に取り立てられます。 村上氏が越後の「」を頼ったことから、1553年(天文22年)、武田信玄と上杉謙信の間で北信濃を巡って合戦が始まりました。 これが「」です。 この戦いは10年間に5度行なわれた合戦の総称ですが、第4次川中島の戦い以外は、小競り合いで終わっています。 唯一の本格的な戦となった第4次合戦が、山本勘助の最後の戦となったのです。 山本勘助は、川中島に「」を築城し、武田軍の拠点とします。 1561年(永禄4年)、上杉軍が海津城の向かいにある「妻女山」(さいじょさん)に布陣したことから、山本勘助は兵を2手に分けて別働隊により妻女山を襲撃し、山を降りた上杉軍を八幡原(はちまんばら)に布陣した本隊と別働隊で挟み撃ちにするという作戦を立てます。 この作戦は、キツツキが木をつついて、驚いて木の中から飛び出した虫を食べることに似ていることから「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)と名付けられました。 ところが、山本勘助の作戦は上杉謙信に見破られ、別働隊が到着したときには、妻女山はもぬけの殻。 慌てて本隊の待つ八幡原に向かいますが、別働隊より少ない武田軍本隊は、上杉軍の総攻撃を受け、武田信玄の弟の「武田信繁」(たけだのぶしげ)をはじめとする武将達が何人も討ち死にし、大きな損害を出しました。 武田軍を窮地に追い込んだ責任を感じた山本勘助は、死を決意して敵陣に突入し、自ら大太刀を抜いて戦いますが、四方を上杉軍に囲まれ、体中を槍で突かれるという壮絶な最期を迎えます。 山本勘助が武田信玄に「常識はずれ」とも言える提案をしたのは1542年(天文11年)、「諏訪攻め」のあとでした。 この戦いで、武田信玄が自害に追い込んだ「諏訪頼重」(すわよりしげ)のひとり娘を側室に迎えるように推薦。 このあと押しもあり、美人の誉れ高かったことから「諏訪御料人」 すわごりょうにん と呼ばれていた諏訪家の姫は、武田信玄の側室となりました。 攻め滅ぼした相手の娘を側室として迎え入れる行為は危険を伴います。 しかし山本勘助は、諏訪家の姫(諏訪御料人)に武田信玄の子を産ませ、親戚関係になることで、諏訪衆を武田軍に心服させられると考えたのです。 この妙策は、のちの諏訪支配の切り札となる武田勝頼の誕生に繋がり、武田信玄没後の武田氏の運命をも決める、山本勘助による初めての献策となりました。 武田信玄 戦国時代屈指の強さを誇った武田信玄の、唯一と言っても良い大失策として語り継がれているのが「」です。 1550年(天文19年)、武田信玄は信濃国(現在の長野県)北部を治めていた「村上義清」(むらかみよしきよ)の拠点「戸石城」(砥石城)に攻め込みました。 しかし、城の防御が予想以上に堅固(けんご:守りが堅く、攻められても容易には破られないこと)だったこともあり、「横田高松」(よこたたかとし)らの重臣が落命するなど大苦戦。 武田軍は、武田信玄自身が戦場の最前線で戦わなければならない窮地に追い込まれました。 この絶体絶命の危機的状況を救ったのが山本勘助でした。 武田信玄に対して「勝利する方法がひとつだけあります」と申し出た山本勘助は、「両角虎定」(もろずみとらさだ)が率いる50騎の隊を借り受けて、本陣に模した陣を形成したのです。 これを徐々に南下させたことで、武田信玄軍が息を吹き返したと勘違いした村上軍は混乱。 これに乗じた武田軍は、立て直すことができたのです。 「小山団扇」(こやまうちわ)は、徳川将軍家や天皇にも献上されていた、の伝統工芸品です。 秘伝の製造方法は、一子相伝の技術として代々継承され続けていましたが、1970年(昭和45年)の後継者死亡により、小山団扇の歴史と技術も途絶えてしまいました。 近年では、藤井寺市商工会が小山団扇復活を目指し取り組まれています。 そんな小山団扇ですが、そのルーツは山本勘助とも言われているのです。 小山団扇の起源は戦国時代にあり、当時、武田氏の参謀を務めていた山本勘助は、三好氏の動向を探るために藤井寺市小山地区に潜伏しています。 その際、三好氏や近隣住民から怪しまれないように隠れみの(かくれみの:実体を隠すための手段)の職業として製造、及び販売していたのが、小山団扇です。 もしかすると、自らの正体を隠すために興した職業が後世になって伝統工芸品として残されることまで、山本勘助の頭には想像されていたことなのかもしれません。 甲陽軍鑑 山本勘助の存在は、近年まで甲斐武田家の軍学書・甲陽軍鑑によってのみ確認され、それ以外の戦国から江戸時代の史料には記されていませんでした。 一時は甲陽軍鑑そのものの信憑性も疑われていたため、山本勘助も架空の人物というのが定説に。 ところが、その説に一石を投じる事件が起きたのです。 1969年(昭和44年)NHKの大河ドラマ「天と地と」で、武田信玄の花押(かおう:署名の代わりに書いた一種の記号)の入った書状を観た視聴者が、「うちにも同じ物がある」と先祖伝来の古文書を図書館に持ち込み、鑑定の結果、真物であると判定されました。 その武田信玄の書状「市河文書」(いちかわもんじょ)には、「勘」の字は異なるものの、「山本菅助」という名が記載されていたのです。 この出来事によって、架空の人物とされていた山本勘助の実在が、図らずも証明されることとなりました。 しかし、この発見は研究者の間でも大きな議論を呼び、山本「菅助」が本当に山本「勘助」のことを指し、この両名が同一人物であるのかは、いまだに見解が分かれています。 それでも、少なくともこの発見によって、武田信玄の下には「ヤマモトカンスケ」という人物が従事していたという事実が判明したと言えるのです。 2008年(平成20年)には、原市の旧家・真下家において、武田信玄が山本菅助に宛てて作成した文書が2通発見されています。 文書が発見された場所の旧家名から「真下家所蔵文書」(ましもけしょぞうもんじょ)と呼ばれており、これをきっかけに山本勘助に関する研究が急速に進展。 2通あるうちの1通については、1548年(天文17年)の信州伊那での山本菅助の働きぶりをほめたたえ、武田信玄自らが恩賞を伝える内容でした。 もう1通については、時期こそ不明ではありますが、武田信玄が山本菅助に対して軍事作戦の検討を命じる文書であり、本文中で武田信玄が「揺(ゆらぎ:軍事作戦)については、よく検討するように」と指示していることから、山本菅助が軍略を担っていたことが窺えます。 現在、真下家所蔵文書2通は、群馬県「学習の森ふるさと学習館」の行なわれる企画展などで一般公開されています。 いずれにしても、山本勘助という人物には謎が多く残されており、今後の研究や発見などによっては新たな事実も判明していくことでしょう。 こうして実在については確認された山本勘助ですが、天才的軍師としてのイメージや彼の残した功績は、甲陽軍鑑や江戸時代の講談等での脚色とも言われ、その実像はよく分かっていません。 「あてずっぽうなこと」を「山勘」(ヤマカン)と言いますが、由来は「山師の勘」だと言われています。 山師(やまし)は鉱脈を掘りあてる人のことで、その博打(ばくち)的な職業形態から、「ペテン師」を指す言葉としても使われるようになり、転じて、山勘には「人をごまかす行ない」・「詐欺」という意味も含められるようになりました。 実は山勘には、山本勘助の名前から来たという説もあります。 山本勘助の生没年以前からこの言葉が使われているため、現在この説は疑問視されていますが、そんな説が唱えられるほど、山本勘助は「計略に長けた天才肌の軍師」というイメージが作られていたのです。 左三つ巴 山本勘助の家紋は、「左三つ巴」(ひだりみつどもえ)です。 この左三つ巴紋を使用していた戦国武将は数多く、山本勘助以外にも「宇都宮広綱」(うつのみやひろつな)、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)などの武将が使用しています。 諸説ありますが、「巴」(ともえ)という言葉は、弓を引く際に腕を保護するために用いる武具、鞆(とも:弓具の一種。 弓を引く人の左手首に結び付け、矢を放つ衝撃を防ぐために使用する道具)を図案化した模様、「鞆絵」(ともえ)に由来。 渦巻き型の紋様には、陰陽思想が反映されています。 日本においては、巴という名の付く家紋は40種類以上存在していますが、その中でも左三つ巴紋は神紋(しんもん:神社で用いられる固有の紋)として尊重されており、神社やお祭りなどで目にする機会も多い家紋のひとつです。 「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。 小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。 前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。 今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。 ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。 「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。 「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。 「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。 単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。 生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。 こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。

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山勘 ヤマカン意味、語源等教えてください

山勘 由来

山本勘助(作、蔵) 時代 生誕 2年()もしくは明応9年() 死没 4年() 改名 山本源助、大林源助、大林勘助、 山本勘助、晴幸、道安、道鬼斎(号) 別名 菅介 、勘介 戒名 鉄巌道一禅定門 天徳院武山道鬼居士 墓所 長野県長野市、(愛知県豊川市)他 主君? 『』においては名を 勘助、を 晴幸、出家後 道鬼を称したという。 勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、段階で山本菅助 子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。 ただし「晴幸」の諱については、25年()にが「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍のである「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は2年()となる。 一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。 五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。 「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。 生年には、元年()説もある。 『甲陽軍鑑』によれば、没年は4年( )ので討死したとされる。 近世にはに含められ、の一人にも数えられて、の伝説的としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。 しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。 生涯 [ ] 以下に記述する勘助の生涯は前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(に発見されたを除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。 勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。 各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である(参照)。 甲陽軍鑑、北越軍談を引用している。 生誕地 [ ] 山本晴幸生誕地(愛知県豊橋市賀茂町) 『甲陽軍鑑』などには(牛久保町)の出とある。 江戸時代後期成立の『』 によれば、勘助は山本(山本)のとの三男に生まれ、三河国主の家臣の養子に入っている。 『』()もこの説を採用している。 甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。 北越軍談では愛知県寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。 日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部名誉教授のによると、信憑性が低いとされるが、『』に初出の 愛知県賀茂(三河国)。 江戸時代以前に主に使われていた。 山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。 勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。 『』によれば、が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。 しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。 上泉秀綱が武者修行に出たのは勘助の死後の7年()以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。 勘助は10年の間、、、、の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。 後に勘助がに仕えたとき、諸国の情勢としてやの将才について語っている(萩藩の『萩藩閥閲録遺漏』の中に子孫を称する百姓・山本源兵衛が藩に提出した『山本勝次郎方御判物写(山本家言伝之覚)』がある。 それによると勘助は大内氏に仕えていたが天文10年に妻子を残して出奔したとあるが、その後の話に辻褄が合わない部分もあり裏付けに乏しい)。 5年()、37歳になった勘助は駿河国主に仕官せんと欲して駿河国に入り、の屋敷に寄宿し、重臣を通して仕官を願った。 だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。 勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。 今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。 兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の(が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。 勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。 武田家足軽大将 [ ] 武田二十四将。 下段左から2番目が山本勘助(江戸後期、蔵) 勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、の重臣は駿河国に「城取り(築城術)」に通じた牢人がいると若き国主(信玄)に勘助を推挙した。 天文12年()、武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。 牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。 取り消されることを心配した庵原忠胤はまずは武田家から確約のをもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて武田家のために朱印状を受けずにへ赴くことにした。 晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。 勘助はで晴信と対面する。 晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。 なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、年数が合わない。 晴信は「城取り」や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者への破格の待遇から妬みを受けて、家中のが勘助を誹謗した。 晴信はこれをして、ますます勘助を信頼した。 南部下野守は各地を彷徨い餓死したという。 同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。 勘助は100貫を加増され知行300貫となった。 天文13年()、晴信はへ侵攻してを降し、これを殺した。 なお、史実では晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年()である。 頼重には美貌の姫がいた。 翌天文14年()、晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対した。 だが、勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。 結局は諏訪家も後継ぎが欲しいであろうという根拠から、姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門との絆となると考えた。 晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎える。 姫はと呼ばれるようになる。 翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。 最後の武田家当主となる(諏訪勝頼、武田勝頼)である(勝頼が武田家滅亡の際に、子息のに家督を譲る儀式を行った事から、信勝が最後の当主になったという説もある)。 天文15年()、晴信は信濃国ののを攻めた。 戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。 そこへ猛将・村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退し、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。 勘助は晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動。 この間に晴信は体勢を立て直し、武田勢は勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破ったという。 武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「」のようだと畏怖した。 この功により勘助は加増され知行800貫のとなる。 この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。 なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年()である。 立身した勘助は暇を受けて駿河の庵原忠胤を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君晴信を「名大将である」と褒め称えた。 晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。 優れた「城取り」で、を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。 また、勘助の献策により有名な「」が制定された。 晴信と勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、、について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。 後年、義元はで敗死している。 天文16年()、晴信はで村上義清と決戦。 重臣・板垣信方が戦死するなど苦戦するが、勘助の献策により勝利した。 村上義清はへ走り、長尾景虎(後の)を頼った。 以後、謙信はしばしば北信濃のして晴信と戦火を交えることとなる。 なお、史実では上田原の戦いは天文17年()であり、戸石城攻防戦の前である。 また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年()である。 天文20年()、晴信はして信玄を名乗る。 勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。 史実では晴信の出家は2年()とされる。 天文22年()、信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃にを築いた。 城主となったは、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。 『』によると、勘助はと懇意であり、またに対して勘助が築城術を伝授している。 これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助はののような「 軍師」と呼ばれるようになる。 なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。 「山本勘介由来」、「兵法伝統録」によると勘助の兵法の師は 家康が初陣で討った人物 と伯父、「吉野家系図」では父貞幸が軍略の師範となっている。 川中島の戦い・勘助の死 [ ] 川中島の戦いで討ち死にする山本勘助 (画) 永禄4年()、謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣してに入り、海津城を脅かした。 信玄も2万の兵を率いてを発向し、海津城に入った。 両軍は数日に及び対峙する。 軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。 信玄は勘助とに謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。 勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。 が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「 啄木鳥戦法」と名づけられた。 信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。 だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。 夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。 夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。 いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。 謙信は勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下ってを渡り八幡原に布陣していた。 武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。 謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。 信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。 その中に勘助がいた。 『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩()殿討ち死に、討死、旗本足軽大将両人、 山本勘助入道道鬼討死、討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。 山本勘助の遺髪を納めた墓所(愛知県豊川市牛久保町) 開基者 真木宗成(念宗法印) 江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。 奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。 『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、の猛将の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところをに首を取られている。 享年69。 勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。 乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。 馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。 ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。 不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。 この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。 なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、一説には 山本 勘助の名前が由来とされている(大言海、辞海)。 実在を巡る議論 [ ] 江戸時代・甲陽軍鑑登場以後 [ ] 作 山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いた初出の史料は、江戸時代初期の初頭に成立したと考えられる『』であり、その後もその印象が江戸時代のに引き継がれて、さまざまに脚色されて天才肌の「軍師山本勘助」像が形成された。 江戸時代には『甲陽軍鑑』はの聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という名軍師の存在も広く知れ渡ることになる。 しかし、元禄年間作成の(天祥)の『』によると、山本勘助の子供が学のある僧で、わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。 ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。 明治時代の評価 [ ] になって近代的なに基づいたがにも取り入れられ、『』や『』といった古典的なに対するが行われ、その史料性が否定されるようになった。 明治24年()、教授は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定、『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」は配下の身分の低い一兵卒が元であろうとした。 田中は『甲陽軍鑑』は軍学者が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、『』の記述を根拠として、『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。 ただし、田中は『甲陽軍鑑』の史料性は低く評価するものの、山本勘助の実在性に関しては疑っていない。 実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、田中の高弟などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。 活動はおろか、名前自体がその他の史料での所見がない山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、戦後には1959年刊行の奥野高廣『武田信玄』において、勘助を架空の人物とした。 市河家文書の発見 [ ] ウィキソースに の原文があります。 44年()10月、同年に放送されていた『』に触発された在住の視聴者が、先祖伝来の古文書から戦国時代のものと思われる「 山本菅助」の名が記された1通の書状を探し出し、北海道大学、信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と確認された。 これは信濃国高井郡の国衆で、戦国時代には武田家臣、近世には上杉家家臣となり、明治期にとして北海道へ渡ったの子孫家に伝来した古文書群で、と呼ばれる。 現在は大半が所蔵家のもとを離れに所蔵されている。 そのうち手元に残した一部が「釧路市河家文書」で、「山本菅助」文書はこの中に含まれる。 現在は山梨県立博物館所蔵。 この書状の発見によって、実在そのものが否定されかけていた山本勘助の存在に、新たな一石が投じられた。 市河家文書の発見を受けて、 、佐藤八郎 、ら山梨・長野県の研究者による研究が相次ぎ、磯貝は市河家文書の発見を持って「山本菅助」の実在は立証されたとしつつも、『甲陽軍鑑』における信玄の軍師としての逸話や諱の「晴幸」に関しては疑問が持たれる点を指摘した。 小林は「山本菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一人物とし、さらにこの文書が第三次川中島合戦に際した弘治3年(1557年)の発給で、菅助は従来の見解による山県の家来ではなく、信玄側近として使者を務める地位の高い人物と評した。 一方、佐藤八郎は磯貝の見解を支持しつつも、「山本菅助」を「山本勘助」に結びつける点に関しては慎重視する見解を示した。 市河家文書以降の研究 [ ] 市河家文書以降の山本勘助に関わる研究は多様なものが見られるが、勘助に関わる確実な記録・史料は『甲陽軍鑑』以外では市河家文書のみであるという状態が続いた。 山梨県の郷土史家・は『甲陽軍鑑』を肯定的に評価し、1985年には『山本勘助』を刊行し、山梨県上蔵原(現・北杜市高根町)に所在する伝・山本勘助の・を紹介した。 上野はこれらの墓石群を中世の五輪塔・宝篋印塔とし、付近には中世土豪の屋敷が所在し、『甲斐国志』に記される八ヶ岳南麓の山本勘助に関わる伝承の記述から、勘助は国信国境に近いこの地域に配置された家臣であるとした。 また、1988年には渡辺勝正が『武田軍師山本勘助の謎』を刊行した。 渡辺は『萩藩閥閲録』の『遺漏』(江戸後期の天保年間に成立)に収録されている、勘助の子孫を称する長門国三隅の山本家由緒書や武田氏関係文書を紹介し、勘助子孫が毛利家中に滞在し子孫を残したとした。 ただし、渡辺の論は『萩藩閥閲録』・『遺漏』などの編纂史料や伝承に拠るもので一次史料に基づいていない点や、紹介している武田氏文書に関しては偽文書である可能性が指摘されている。 1990年代にはが戦国時代における「軍師」の役割を検討し、軍師は合戦の吉凶を占う軍配者としての軍師と、主君に対して軍事上の助言を行う参謀として軍師の両面があることを指摘し、勘助は双方の役割を兼ねた「軍師」であったと指摘した。 1990年代後半から2000年代初頭にかけては『 武田氏編』や『』の編纂が行われ、武田氏関係文書の徹底的な集成・調査が実施されたが、勘助に関する新出史料は発見されなかった。 からはが武田一族・家臣の名が多く記された高野山過去帳の紹介を行っているが、現在でも勘助に関わる名は発見されていない。 一方、1990年代には国語学者の酒井憲二が『甲陽軍鑑』の国語学・書誌学的な再検討を行い、これが2000年代には歴史学方面にも波及して、甲陽軍鑑の史料性に関する再評価が提示された。 2007年には井上靖原作のNHK大河ドラマ『』が制作・放映され、前年から山本勘助に関する文献が多く出版された。 真下家所蔵文書の発見 [ ] ウィキソースに の原文があります。 にはが「山本勘助の虚像と実像」『武田氏研究 第36号』を発表し、所蔵「古文書雑纂」における「高崎山本家文書」の調査記録に注目した。 これは(明治25年)に旧士・山本家当主が所蔵文書の鑑定を依頼した際の記録で、柴辻は文書自体は質の悪い写本であるとしつつも、「山本菅助」宛武田晴信書状については一定の信憑性があるものと評価した。 には、のによる同市に居住する真下家の所蔵古文書の調査において武田氏関係文書が発見された。 同年にはによる資料調査が実施され、「山本菅助」とその関係者とみられる5点の新出文書が確認された。 なお、真下家所蔵の古文書群は当初「真下家文書」と呼称されていたが、その後の調査で本来的には真下家に伝来したものではなく蒐集した古文書であることが判明したため、現在では「真下家所蔵文書」と呼称されている。 この5点の文書は「山本菅助」宛て文書が3通、「菅助」子孫の山本氏宛てと考えられている文書が2通で、『市河文書』以来の「山本菅助」関係文書として注目されているほか、山梨県立博物館の調査により「菅助」子孫の動向も判明した。 さらに、11月にはで「第二十四回国民文化祭・しずおか2009」の一環として開催されていた企画展「後北条氏と沼津」において出展されていた古文書の中に、2007年に柴辻が紹介していた「山本菅助」宛武田晴信書状と同一の写本が発見された。 これにより文書の所蔵家から古文書・家譜類などの「」が発見され、高崎藩士であった「山本菅助」子孫が明治後に移住していたことが判明した。 真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見に伴い山本菅助の研究は加速し、特に沼津山本家文書の家譜類から初代「山本菅助」の法号が『甲陽軍鑑』における山本勘助のと同様の「道鬼」であることが確認された。 近世初頭においては「山本菅助」子孫や武田遺臣、再仕官を願った大名家の間では、初代菅助は『甲陽軍鑑』における「山本勘助」と同一視されており、両者は同一人物であると指摘されるに至った。 また、真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見は近世初頭における武田遺臣である「菅助」子孫の再仕官に関する事情を豊富にもたらし、中世・近世移行期における大名家臣の動向に関する史料としても注目されている。 一方で、『甲陽軍鑑』における山本勘助の活躍や軍師としての役割などの点については解明されるに至らず、課題として残されている。 (平成22年)には山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」が開催され、研究成果が一般に公開された。 同展ではシンポジウムも開催され、海老沼真治、丸島和洋、柴裕之、平山優らによる諸論考が発表された。 なお、には同シンポジウムの成果やその後の調査などが山梨県立博物館監修・海老沼真治編『「山本菅助」の実像を探る』(戎光祥出版)として刊行されている。 川中島古戦場付近の勘助の墓(長野市) 真下家所蔵文書・沼津山本家文書によれば、初代山本菅助の子息には二代がいる。 幼名は兵蔵、諱は幸房とされる。 二代菅助は『』巻之九十六では「山本勘助」の項目に続いて勘助子息の「山本某」を立項し、実名を不詳としつつ一本系図によれば名は「勘蔵信供」としている。 「山本某」は3年()5月21日ので戦死したとし、『沼津山本家文書』でも二代菅助は長篠合戦で戦死したと記している。 また、『甲斐国志』巻之百九では「饗庭修理ノ亮」を立項し、饗庭利長(越前守)次男の十左衛門頼元が勘助の娘を妻とし改姓し、を名乗ったとしている。 文書上においては『』において「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名が見られ、武田氏滅亡後にに仕えていることが確認されている。 2009年に群馬県安中市で発見された真下家文書には「山本菅助」文書を含む5通の山本氏関係文書が存在しているが、その中には天正4年推定の「山本菅助」の後継的立場にあると考えられている山本十左衛門尉宛の軍役文書が含まれている。 また、慶長7年(1602年)から慶長11年間推定の書状は十左衛門尉の子宛で、徳川家康に仕えた菅助・十左衛門尉の子孫がに仕えた可能性が考えられている。 また、真下家文書のうち天文17年山本菅助宛武田晴信判物は東京大学史料編纂所所蔵「古文書雑纂」に収録されているが、注記に拠れば「雑纂」所載山本氏文書は明治25年12月に小倉秀貫が山本勘助子孫であるという旧上野国高崎藩士山本家所蔵の写を探訪したものであるという。 高崎藩主は松平信綱5男を祖とする松平家で、家臣団関係資料である「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には信興期からの家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士が存在していることから、「雑纂」注記の高崎藩士山本家に比定されるものと考えられている。 山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、「山本菅助」子孫は徳川氏に仕えた後に再び浪人し甲斐にいたが、寛永10年(1633年)頃に主に再仕官し藩士となり、「菅助」の名乗りを復したという。 その後はのへの転封に従い丹波へ移り、後に松平信興に仕え、信興の転封により、、などを経て最終的に士となっており、好事家の真下家により文書が収集されたものと考えられている。 沼津山本家文書によれば「山本菅助」子孫は初代「菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一視しており、再仕官したのちも甲州流軍学を学んだ軍学者として活躍している。 諸藩の山本家と山本勘助 [ ] 越前松平家は子孫などを家臣団に加えているが、越前松平家の藩士系図「諸士先祖之記」には秀康期家臣に山本内蔵助成本・山本清右衛門の存在を記しており、山本内蔵助は系図が不分明であるものの山本勘助を先祖としており、山本清右衛門も武田信玄に仕えた山本氏を先祖としている武田遺臣であるという。 文書『蒼紫神社文書』などによると、同藩の家老連綿の家柄である山本氏は、山本勘助弟・帯刀(帯刀左衛門)の末裔とする。 山本家の名跡を継いだ、軍人として著名なは、山本勘助と同じ家系に連なる人物であるとして各方面で紹介されている。 また『』によると旗本・山本氏250石も、山本勘助の家系を汲む者となっている。 武田遺臣で構成されたの千人頭に山本家がある。 なお、の正史である『』巻四十六」に拠れば、中津のに二百石で仕えた下村巳安は、勘助が討ち死にしたときに幼い三男(長男と次男は川中島で討死と誤記)だった下村安笑の子、すなわち山本勘助の孫であったとされる。 また、已安の子・傳蔵(巳安)も父と同じく八代で三斎に仕えた(正保年間・二百石)。 その他 [ ] 江戸時代後期のの一人である(1824年? - 1863年)は剣術の名手として知られ、自らを山本勘助の末流と自称していたという。 山本勘助に関する文学・伝説・信仰 [ ] 江戸時代の文学・美術における勘助 [ ] 『甲陽軍鑑』をもとに江戸前期から、武田信玄に仕えた「軍師」としての人物像がや、、絵画作品を通じて定着し、勘助の人物像が確立した。 また、勘助の家族、とりわけ母の越路(架空の人物)が劇化され、たびたび取り上げられている。 以下に特に著名な二作を挙げる。 、ら6人合作の浄瑠璃『』の三段目「」• 作の浄瑠璃『』の三段目立端場「」 越路はと呼ばれる難役の一つに数えられている。 江戸期には『中牧合戦記』など武田家を題材とした実録も成立するが、山本勘助を扱った実録として『山本勲功記』(別称に「山本戦功記」がある。 太平記英勇伝六十七「山本勘助晴幸入道」(作) 絵画作品においては画『山本勘助像』(江戸後期、蔵)や『山本勘助画像』(明治初期、蔵・武田信玄公宝物館保管展示)などがあり、法師武者や独眼など『軍鑑』に見られる姿を反映して描かれている。 また、近世にさかんに製作された図や、、、らのや、歌舞伎興行に際して製作されたにおいても同様の姿で勘助が描かれ、人々の間で定着している。 近現代文学における勘助 [ ] (昭和28年)10月から翌年12月まで『』に連載されたの『』は、には映画化(監督:)、12月には主演で系列の「年末大型時代劇スペシャル」第8作として、また、正月には主演で系列にてテレビドラマ化がされた。 さらに、井上靖生誕100年を記念して放送の の原作となった。 は1960年から1962年まで『週刊朝日』に『』を連載し、 渡辺世祐博士の非実在説を採用すると断り書きを入れて [ ]、勘助を登場させていない。 この作品は1969年にNHK大河ドラマ化され、同年の市河家文書発見の経緯にもなった。 の歴史小説『』は5月号から9月まで『』に連載された。 連載中には市河家文書が発見されたものの、当時はまだ勘助の実在が疑われていたため、作中で勘助を軍師ではなくとした。 これら以外にはの『』があり、武田信玄に仕えること以外ほとんどが創作となっている。 これら作品での勘助は、新田「武田信玄」を除いて共通してで描かれているが、どちらの目を失明していたか不明であるため、右目あるいは左目であったりと定まっていない。 近年の主な作品の山本勘助 [ ] 山本勘助は以上の説明の通り、史実と認められた情報が極めて少なく、それだけに古今の創作家の想像力を大いに刺激してきた。 『』() 武田晴信に仕官した山本勘助は諏訪頼重の暗殺を進言し、頼重は殺され諏訪家は武田家に攻められて滅ぼされた。 高遠城に攻め入った勘助は、自害を頑なに拒む頼重の娘由布姫と出会い、その美しさと気高さに魅了された。 仇討ちを誓う由布姫。 晴信は由布姫を側室に望むが、重臣たちはこれに反対。 勘助のみが側室に迎えるべきと強く主張した。 勘助は武田家と諏訪家の絆ができること、そして由布姫の幸せを願っていた。 やがて、由布姫は四郎勝頼を生む。 勘助は由布姫への思慕の情を抱きながら各地で戦い続けるが、由布姫は若くして死去してしまう。 悲しみに暮れる勘助にはやがて運命の川中島の戦いが迫っていた。 この作品では美しい由布姫に思慕の情を抱き、尽くそうとする勘助がストーリーの軸となる。 なお、『甲陽軍鑑』はそのような筋立てではない。 (監督:、主演:)され、(主演:)され、(主演:)で、(主演:)で、2007年にNHK大河ドラマ(下記)で、テレビドラマ化がされている。 『 』() 多くの武田信玄モノの小説とは異なり、信玄が没して後の世界を描く。 の信長討伐令に応じる形で上洛を目指す信玄は上洛途上で落命する。 しかし信玄の遺言にはその死は三年間秘することが命じられていた。 武田の敵であるは「甲斐の虎」たる信玄の存否を疑い、配下の間者を放つ。 それに対抗するは、川中島の敗戦後、隠者生活をしていた道鬼斎こと山本勘助の陰武者を駆使した様々な謀略であった。 この作品では山本勘助が川中島の敗戦では戦死せず生き延びて、武田に影から力を尽くしてきたという新しい解釈がなされている。 『 』() 武田晴信が倉科衆の謀反の合議に招かれた際、今川家の間者、山本勘助が潜り込んでいた。 このことを晴信に見破られ、このことがもとで合議は終わった。 見破られたことを義元にとがめられる形で勘助は武田家に潜り込んで武田家の間者として働く。 間者として長尾家や今川家・織田家などの情報を収集したり、の娘と晴信の間を取り持ったりする。 次第に今川家との距離が広がり、武田家に忠誠をつくすようになる。 桶狭間の戦いでは信玄の命でとはかりを殺害する。 最期はの戦いで率いる別動隊に敵襲を伝える途中上杉軍の雑兵に太ももを槍に刺され、使者としての任務を果たすも命を落とす。 勘助の実在を疑われた後に書かれた作品であり、勘助を参謀ではなく使者・間者として描いている。 この作品における勘助は隻眼ではない。 (山本勘助役:)でテレビドラマ化されている。 『 』(、原作:井上靖、脚本:、主演:) 物語の序盤で、独自に勘助の青年時代を描いたことが新趣向である。 諸国遍歴の武者修行の旅をしている大林勘助は甲斐国に入り、合戦のどさくさに武田家の侍に襲われた農民の娘ミツを助ける。 勘助とミツは愛し合うようになるが、兵法を極めた勘助は軍師として身を立てることを願い、流浪の旅を続けることに。 武田家に仕官した後、前述の大河ドラマ『』と同じく桶狭間で今川義元が討死するよう仕向けるが、信玄の命ではなく勘助は独断で動いている。 この作品では、勘助は1500年(明応9年)に駿河国富士郡山本郷で誕生したという設定になっている。 『 紅楓子 こうふうし の恋』( 徳間文庫『将軍の星 義輝異聞』収録) 山本勘助の生涯を描いた短編小説。 武田信玄の正室・に密かに恋情を抱く。 勘助が三条の方の寝所に楓の枝を残したために、三条の方は信玄に密通を疑われる。 『 伊達の鬼 -片倉小十郎-』(田中克樹 新潮社 コミックバンチ) 川中島の敗戦では戦死せず、各地を放浪していた。 若かりし頃のに自分が鬼になれず主君である武田信玄を戒めることができなかった事を語り、小十郎に大きな影響を与えた。 この作品では長篠の合戦で武田が大敗を喫した原因は、騎馬を過信し鉄砲への理解を深めなかったことを挙げている。 『 男弐』(作・ 画・ ) 第一部、甲斐の鬼・山本勘介篇として連載。 武田家に仕える頃より、(作中では)の手により暗殺されるまでが描かれている。 片眼・方足と言う設定、軍師として奇抜なアイデアや奇抜な甲冑のデザイン、武田晴信(信玄)に尽くす様など独自の観点やファンタジー要素も含まれた描写が多い。 『 』( )• 『 』『 』『 』 今川家の若侍山本勘助の小者であった四郎左は、主である勘助が下野のへ向かう最中に横死したことを機に彼の名を騙って足利学校に入門、同門の徒である小太郎、冬之助、先輩である景岳と共に優れた教育の元でその豊かな才能を開花させつつ友情を育んでゆく。 だが、山本家の使いにより身分を偽っていた事が発覚。 友人らの助けを借りて京に逃げ、で軍配者としての学を極める。 しかしながら、仕官先を求め各地を旅するも幼い頃に患った疱瘡によって醜い形相となった四郎左を取り立てる大名はおらず、逆に駿府で山本家に捕らえられ齢四十となるまで軟禁生活を強いられる。 そのような無為な暮らしの中、たまさか亡命中であったに見出され、彼を追放した嫡男を暗殺すべく刺客として甲斐に送り込まれるも、晴信の器量に惚れて逆に仕官。 と晴信との仲を取り持ち、さらにその優れた軍略によって晴信を助け、名実ともに信玄の腹心となる。 やがての娘である千草と結ばれ、軍配者の本懐として、ついに四郎左はの腹心となった旧友と知力と命とを懸けた戦いに望むこととなる。 伝説 [ ] の伝統工芸品「」は、の動静を探るため小山地区に一時住んだ勘助が、間者であることを隠すため作ったことに始まるとの伝承がある。 信仰 [ ] 武田家の菩提寺である甲州市塩山小屋敷の近在の塩山三日市場には像が祀られた堂がある。 この不動明王像は「勘助不動(さん)」と呼称されており、塩山小屋敷・塩山三日市場の両地区において管理されている。 像高は約40センチメートル(台座下から後背頂部まで58センチメートル)で、堂内正面の仏壇に安置されている。 「勘助不動」は不動明王特有の「半眼」であるが、『甲陽軍鑑』における山本勘助と同様に右目が塞がれている。 1890年(明治23年(1月)の恵林寺住職・圓應が記した由緒書『勘助不動尊再建有志名簿』によれば、武田氏の滅亡後に信心深い男が本像を刻み、毎年1月28日に祭礼が行われてきたとする伝承を印、堂の再建に寄せた浄財と寄付者の名簿を記している。 堂の位置は再建時に現在地に移転されたという。 祭礼の際に用いられた版木と札も残されている。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『甲斐国志』は支配の松平定能により編纂が企図され、11年()に完成した甲斐国の地誌。 編纂に際しては文書調査も行われているが、武田氏や戦国期に関する記述は『軍鑑』からの影響が強いことが指摘さえている。 勘助の武田家仕官については武田家臣の用務日誌であると考えられている『』(甲陽日記)にも記事が見られる。 現在伝わっている『高白斎記』は武田家の用務日誌を基に近世段階でのの事績が竄入されたものであると考えられており、勘助に関する記事も『軍鑑』からの引用であると考えられている。 『高白斎記』については柴辻俊六「『高白斎記』をめぐる諸問題」。 武田家の足軽大将については、確実な文書の検討から甲斐出身で小身の甲斐衆と他国出身者に大別され、武田家の重要な役職は甲斐衆により独占され、他国出身者が武田家に仕官した場合は足軽大将に任命されることが多かったことが指摘されており、三河出身の山本勘助が足軽大将に任命されている『軍鑑』の記述は整合性があるものと指摘されている。 なお、同論考は目次には掲載されていない。 出典 [ ] []• 42 - 44• 他に『』(豊川市下長山の住職の佐野知堯著・5年()成立、下長山は牛窪の隣)、『参河志』(の神官・渡辺政香著・元文元年()成立)• (平山 西川)• 現在も高遠城址の「勘助曲輪」に名を残している。 磯貝正義『定本武田信玄』 新人物往来社、1977年• 佐藤八郎「山本勘助史料の発見」 『甲斐路』17号、1970年• 小林計一郎「山本勘助の名の見える武田晴信書状」 『日本歴史』268号、1970年• 平山優「山本勘助・菅助研究の軌跡」『「山本菅助」の実像を探る』、pp. 42 - 43• 小和田哲男『軍師・参謀 戦国合戦の演出者たち』 中公新書、1990年 、小和田哲男『呪術と占星の戦国史』 新潮選書、1998年• 『真下家文書』の紹介・翻刻は海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」 『山梨県立博物館研究紀要』3号、2009年)、「山本菅助」子孫については「実在した山本菅助」(山梨県立博物館、2010)• 平山優「山本菅助とその一族」『「山本菅助」の実像を探る』PP. 137 - 138• 平山優「山本勘助・菅助研究の軌跡」『「山本勘助」の実像を探る』、p. 平山優「山本菅助とその一族」『「山本菅助」の実像を探る』P. 139• 山本十左衛門尉については、「山本勘助の虚像と実像」 『武田氏研究』35号、2006年)• 『黒駒勝蔵対清水次郎長 時代を動かしたアウトローたち』(山梨県立博物館、2013年)、p. 華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会ホームページ. 2017年3月31日閲覧。 152• 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、pp. 152 -153• 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、p. 155• 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、p. 154 参考文献 [ ] 史料集• 、服部治則校注 『甲陽軍鑑(上)(中)(下)』 、1965年• 山本勘助 『兵法秘伝書』 、2007年、 単著・編著• 『山本勘助』 、• 『山本勘助 新装版』 新人物往来社、2006年• 上野晴朗・萩原三雄編 『山本勘助のすべて』 新人物往来社、2006年• 数野雅彦 「甲府城下町の山本勘助屋敷」• 西川広平 「山本勘助と足軽」• 平山優 「山本勘助が生きた時代」• 平山優 「山本勘助はなぜ信玄に仕えたのか」• 山下孝司 「山本勘助の屋敷と墓の伝承をめぐって」• 『 大河ドラマ特別展 風林火山 信玄、謙信、そして伝説の軍師』図録、山梨県立博物館2007年4-5月、8-9月、10-12月 論文• 「山本勘助の虚像と実像」 『武田氏研究』36号、2007年• 海老沼真治「群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」 『山梨県立博物館研究紀要第』3号、2009年• 平山優 「山本菅助宛て武田晴信書状の検討」 『戦国史研究』60号、2010年• -主人公。 演: 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 蔵の狩野了承『山本勘助像』はじめ絵画資料に見る勘助のイメージ。

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役行者山

山勘 由来

「山勘(やまかん)」 の由来についてまとめたエッセイです。 由来だけ手っ取り早く知りたい人は下のほうまで飛ばして読んでね。 私は人によく「勘がいい」と言われます。 しかし私はその言われ方にあまり納得できません。 それはなぜかというと・・・ 「勘」辞書でひいてみるとその意味は、物事を直感的に感じ取る能力。 第六感。 よく調べて考えること。 罪を調べただすこと。 勘の語義としてあげられるのは、直覚いわゆる〈第六感〉、虫の知らせ、無意識および下意識、練習による機械化や自動化、技神に入るの妙、神徠(しんらい)、霊感、悟り、禅、三昧(ざんまい)以心伝心、手加減、こつ、呼吸などなど・・・ 当たっているものもあり、そうでないものもあり・・・もちろんこれは私の考え。 ある大学教授の言葉を見つけました。 「勘というのは、棚ボタ式に出てくるものじゃない。 それまでに経験したことが体の中に残っているから、ピンとくるんです。 私の考え方はまさにこれかもしれません。 当てずっぽうのことも言います。 私が「勘がいい」に対して嫌悪を覚えるのは、この言葉によるものかもしれません。 当てずっぽう、つまり適当にこなしたが結果が良かったといった風に聞こえるからかもしれません。 「山勘」の由来について調べてみると、二つの説が出てきました。 一つ目は山師の算勘(=計算)からきているという説。 鉱山などを採掘するときに、頼りとされたのは職人の勘でありました。 ただその為に、当たり外れが多かったと言います。 そういったことから、うそつきや詐欺師の事を、「山師」と言うようになったといいますが、山師がペテンというった解釈と、今回の山勘については切り離して考えたほうがよさすです。 「山師の勘」という事で、「ヤマカン」と呼ばれるようになったとうのがこの説。 もう一つは山本勘助からきたという説。 ご存知の方も多いと思いますが、山本勘助とは武田信玄に仕えたと天才的な武将であり兵法家。 はかりごとを巡らし、数々の作戦を立てる軍師という役がその仕事。 勘助は軍略や計略、奇襲を様々に巡らし軍を操るのですが、そこから策をもてあそぶことやごまかすことを「山勘」と呼ぶようになったというのがこの説。 つまり「山本勘助」の名前をあだ名のように略したということですね。 ただこちらの説は、言葉の遣われ始めた時代と人物の活躍した時代の違いや策略に長けていた勘助が当てずっぽうに変化するといったことが想像しににくいため、その可能性は薄いようです。 つまり、「山師の勘」という説のほうに分が有るわけですが「勘」の語源としては「山本勘助」の方に分がある気がします。 もちろんそのような事実はまったくありません 当てずっぽうか、経験から導き出される知略か。 それをとぼけていることも、もしかしたら戦略の一つなのかもしれません。 一言コメントする メールアドレスは公開されません。 一言コメント You may use these HTML tags and attributes: ニックネーム 上に表示された文字を入力してください。 (スパム対策).

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