大阪 あまの じゃ く。 天神橋筋商店街にある消費期限3分!?crepeあまのじゃくのクレープを食べてみた

関西で味噌煮込みうどん!『きしめんあまの』@大阪梅田 (by 奈良に住んでみました)

大阪 あまの じゃ く

雨森 信 (あめのもり のぶ) Breaker Project ディレクター|成安造形大学 客員准教授|大阪市立大学都市研究プラザ 特別研究員 京都市立芸術大学美術学部卒業、設計事務所、ギャラリー勤務を経て、フリーランスのキュレーターとして活動。 2003年より「Breaker Project」を企画、長期に渡る地域密着型のアートプロジェクトを手がける。 ほかに「水都大阪2009」「BEPPU PROJECT2010」「札幌国際芸術祭2017」など、さまざまな現場において、独自の表現活動を開拓するアーティストとともに、新たな表現領域を探求。 地域に根ざしたアートの実践を通して、現代における「芸術と社会の有効な関係」と、アートマネジメントの役割について研究する。 自分の生き方は自分でつくる 現代美術に出会って、人生観が180度変わる ——雨森さんがアートプロジェクトに関わるようになったきっかけについて、教えていただけますか? 芸大出身で、もともとつくる側だったんです。 学生時代、つくることは楽しかったんですが、現代美術と社会の接点がないことに疑問を感じるようになり…。 現代アートもアーティストも、社会のなかで認知されていない状況に違和感を持ち始めたんです。 社会の側に目を向けると、経済ばかりが重視される時代、価値観も均一化されていくなか、ひとり一人の個性や創造性がどんどん縮小されていく印象もあり、これでいいのかな、と。 ——現代アートの置かれた状況に、疑問や違和感を抱いておられたんですね。 そうですね。 なので卒業後は、設計事務所に就職したんです。 建築だと社会と関わりながら仕事ができるかなと思って就職したんですが、建築の仕事はクライアントありきな部分が大きくて。 社会というよりクライアントの価値観でしか、物事が進まない。 特に賃貸マンションの設計が多かったので、無難なものばかり求められました。 いろいろなタイルや床材なんかを取り寄せるんですが、例えば、原色の真っ赤なタイルなど綺麗な色のタイルはどんどん廃盤になっていく……。 また違和感というか、疑問が湧いてくるわけです。 — —無難なものだけが残っていくことへの違和感でしょうか? 売り手の論理で全てのことが効率化されていくことへの違和感ですかね。 選択肢がどんどん減っていって、無難なものを選ばざるを得ないというのは、私自身耐えられないなと。 「普通」とか「常識」という言葉への反発もありました。 みんながこうだからという理由で、好きでもないけど無難なものを選ぶようになってしまうと、面白みがないというか。 敷かれたレールの上を生きていくのではなくて、もっとそれぞれが好きなように生きていける社会になったほうが、私自身が楽しく生きられるな、と思ったんです。 ——社会のためのというよりは、自分ごとから発生しているんですね。 私自身が現代美術に出会って、人生観が180度変わったという経験が今の活動の原点ですね。 それまでは大学に入って、卒業したら就職して、結婚して……って、人生ってそんな感じかなとぼんやり考えていた。 というか、ほかの選択肢があるのを知らなかったんですよね。 だから芸大に行って、自分で自分の生き方をつくっていけるということに気付けたのは、本当に大きかったと思います。 ——現代アートに出会ったきっかけというのは? 大学受験のときですね。 芸大を受けることになって、受験する大学の卒業制作展に足を運んで初めて現代美術に出会いました。 芸大に入学すると、まわりには既存の価値観や常識にとらわれずに生きている人がたくさんいて、そこに刺激を受けて、自分の価値観も変わり、どんどん解放されていったように思います。 「社会のためのアートということではなく、社会とアートをつなげば何かが変わるんじゃないか、と思ったのがきっかけです」と雨森さん。 「社会」を意識しているアーティストが増えているこの頃。 ——設計事務所を退職されたあとは、どのような活動をされていたんですか? まずは社会とアートをつなぐことが重要だと思って。 でもいきなりフリーランスで生きていけるわけではないので、アルバイトをしながら展覧会を企画したり、アートスペース虹というギャラリーでも3年ほど仕事をしました。 90年代中頃に、京都の高瀬川で行われている桜祭りに合わせて、作品の展示やパフォーマンスを企画する機会があったのですが、その時に通りがかりの人の反応が面白かったんですよ。 ふだんは美術館に足を運んだり、ギャラリーに行ったりしないような人たちも、足を止めて見てくれる。 パフォーマンスをしていたアーティストに「あんた天才やな!」って声を掛けてくれる人もいて。 現代美術はよくわからない、敷居が高いと言われがちですが、アートの文脈を知らなくてもや知識がなくても、伝わるものがあるんだということを実感しました。 その時に、社会とアートをつないでいくためには、自分たちからまちに出る必要があると確信したんです。 まちに出ることで、いろんな出会いがある、そこに面白味を感じたことが、ブレーカープロジェクトにつながっています。 ——アーティスト自身は、社会との関わりについてどのように感じていたのでしょうか? 90年代中頃ごろから少しずつ、社会と関わりながら活動や制作を行うアーティストが私の周りにも出てきました。 アーティストは基本的に「社会ありき」というよりも、まずは個人的なことが表現の出発点になっていると思うのですが、そのアーティストも生活しているなかで社会の影響を受けているのは言うまでもありません。 アートの領域から少し外の世界に出てみることで、社会のしくみに興味を持つようになったり、身近なところで起こっている緊急の社会課題に対してアクションを起こすようになったり、そこで自分が何をすべきか、何ができるのかを考えるようになる。 現在は、アートプロジェクトや芸術祭がこれだけ増えているので、アーティストが地域社会のなかで作品を制作することや参加型のワークショップなどがあたりまえのようになってきているけれど、その当時は、そういう場自体を自らつくっていくから始まっているので、もっと社会に関わる必然性のようなものがアーティストの中にあったように思います。 ——では徐々に、「社会のためのアート」を実践しているアーティストが増えているんですね。 社会のためのアートという言い方は少し違うかなと思います。 社会のためというよりは、社会とのリアルな関わりを必要とする、もしくはそこに面白みを感じるアーティストが増えてきたということかと。 社会のためというのは、あくまでも結果としてであって…。 ブレーカープロジェクトでも、アーティストが地域のなかで時間をかけて新しい表現活動に取り組む環境を整えること、そしてそのプロセスを地域と共有していくことで関わりを生み出していくことを目的にしています。 ——「社会のため」第一の目的ではない、ということでしょうか。 そうですね。 アーティストが生きている中で、社会に対する問題意識とか、憤りをとか、何か変えていかなければいけないという想いはあると思います。 ですが社会や地域のために何か具体的に役に立つような作品をつくるということはほとんどないのではないでしょうか。 予算があってもなくても、まずは、その言葉にならない「何か」を表現せずにはいられないというのがアーティストであって。 公共空間に設置されるパブリックアートのようなケースを除いて、アーティストの自発的な表現活動であったり作品を生み出していくという営みは、クライアントから発注があってその予算に応じてものを作っていくということではないんです。 ブレーカープロジェクトの創造活動拠点のひとつである「新・福寿荘」は、西成区山王にある築60年の木造アパート。 一室はアーティストユニット・パラモデルが制作を行った「レジデンス・パラ陽ケ丘」は、毎年春と秋に1日1組限定で公開する滞在型作品。 まちは長い時間をかけて、住む人によって作られていく。 ——ブレーカープロジェクトは発足から15年ですが、長くプロジェクトを続けていると、目標を見失ったり、進むべき道を迷ったり……ということはありませんか? すごく遠い未来を見ているというか……すぐに結果が出るものではないという意識でやっていて。 まちづくりとか地域活性化とか最近よく言われていますが、まちはそこに住んでいる人たちによって、半ば無意識につくられていく部分が大きいと思うんです。 大きな開発が入るとなるとまた別の話になりますけど。 高齢化して世代交代があったり、建物が老朽化して建て替えられたり、常に変化している。 そういった流れの中で、一人ひとりがどういう選択をしていくのか。 その暮らしのすぐ側にアートが在り続けることで、住んでいる人に何かしらの変化があり、そこからまちへの影響があるのではないか。 そこが一番興味のあるところです。 ——まちが作られていく過程にアートがあることで、そんな影響が起きるか、ということですか? 仮説ですけど…何か影響があるはずだという確信が私の中にはあります。 だから続けている。 目的を見失いそうになったら戻れる場所というか、プロジェクトの軸ですね。 ただ、明確な理想の未来に向けたプランを先に決めてしまうのではなく、遠い漠然とした未来を見据えながら、活動の中で出会っていく人や場所であったり、その時々の状況によって次の一手を考え進んでいく。 分かりにくいし、遠回りだと思われることもあるかもしれませんが、まちの未来をつくっていくのは、そこに住んでいる人たちですし、私たちが答えを持っているわけでもない。 実践を通して考えながらですね。 また地域で活動していくことは、面倒なことも大変なこともありますが、実はそれがまっとうというか、健全だとも思います。 そういったことも含めて面白がれるというのも続けていけるポイントかもしれません。 ——だからこそ、地域に根ざすというか、地域を舞台に活動をされているんですね。 もともと「地域」ということを強く意識していたわけではないんですが、実際にまちに出て活動をするうちに、いわゆる「社会」という言い方は、すごく抽象的だなと思うようになって。 結局は活動する地域、つまり自分たちのいる場所が社会であり、世界とも繋がっていると。 戦争とか経済格差とか挙げればきりがないほど現代社会の問題は山積みですし、一人の力ではどうにもならないことだらけですけど、だからこそ、自分のいる場所から状況を変えていけるといいなと。 地域の場として定着しつつある、元タンス店を改装した「Kioku手芸館たんす」。 2016年11月からは美術家・西尾美也を迎え、地域の人と共にファッションブランド「NISINARI YOSHIO」を立ち上げる新たなプロジェクトがスタートしている。 10年なんて一瞬、地域が変わるにはもっと時間が必要。 ——これからはどんな活動を展開されていくのでしょうか? 創造活動拠点の一つ、旧今宮小学校を活用したプロジェクト、「作業場」づくりの活動や新福寿荘のアーティスト・イン・レジデンスの取り組みは継続していく予定です。 特に2017年は、西成区の広範囲でリサーチをしているので、新たなつながりも作れましたし、今後、そのネットワークを活かしたプロジェクトができればと。 この場所(Kioku手芸館「たんす」)は2012年から活動しているのですが、地域の女性たちの居場所にもなってきているし、地域の人が必要と思ってくれているなら、地域で運営していく方法もあるのかな、と次年度以降は新たな展開を考えています。 ——実験の場所から、地域の場所へと変化していくのですね。 実験的なアートプロジェクトは芸術文化振興の範疇ですが、そこから地域の場所として継続していくのは、単年度事業で組まざるを得ない文化事業とは少し意味合いが変わってくるのかなと。 大阪市の文化事業として実施されたプロジェクトの中で生まれたスペースですが、今後は地域にとって必要な場として運営していくために、地域の町会や活動とどう連携していくのか、どのように予算を獲得し運営基盤を構築していくのか、新たに継続の道を探っていきたいと考えています。 ——ひとつの地域に根を下ろした継続的なアートプロジェクトは大阪では珍しいと思うので、ブレーカープロジェクトの未来も非常に楽しみです。 始めた当初は最低でも10年と思っていたんですが、10年なんてあっという間でした。 10年を経て地域にとってどんな成果があったかというと、本当にささやかなものなんです。 関わった人たちのアートに対する意識の変化だったり、これまでつながりのなかった同じ地域の人同士が出会う場がとなっていたり、暮らしの中の小さな変化だったり。 同じエリアで続けていくと面白がってくれて協力してくれたり参加する人が少しずつ増えていく。 ネットワークも広がっていくので活動もどんどんやりやすくなっていくといったようなことで、数値化できる分かりやすい成果ではありません。 アートが社会にどのようなインパクトを与え得るのか、という問いの答えが目に見えて分かるようになるには、30年もしくは100年くらいはかかるんじゃないかと。 こういった小さな積み重ねを続けた先に、このまちがどうなっているのか、継続しないとその結果は見られないわけですから、これからも続けていきたいですね。 ——これからの大阪市の文化振興について、期待されることはありますか? アートの持つ力を社会のために活かしていくという施策がありますが、地域の課題は簡単に解決できるものではないし、アートはそもそも課題解決を第一の目的とするものでも特効薬でもありません。 もちろんそのきっかけとなることは間違いないのですが、アーティストが新しい表現活動に挑戦したり、その中で切磋琢磨できる環境やそれらを支えるマネジメントの人材、プロデューサーなどが活動していけるインフラを整えていくことが大阪市のめざす将来像「文化自由都市」に向けた大きな課題ではないでしょうか。 現在は西成区内で3つの創造活動拠点を展開しているブレーカープロジェクト。 「こういったものづくりの場が地域にとってなくてはならない場所になり、ゆくゆくは小さな公共の場として各地に広がっていけば」。

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お好み焼き【あまの】下町鉄板 深江橋 東成区 城東区

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雨森 信 (あめのもり のぶ) Breaker Project ディレクター|成安造形大学 客員准教授|大阪市立大学都市研究プラザ 特別研究員 京都市立芸術大学美術学部卒業、設計事務所、ギャラリー勤務を経て、フリーランスのキュレーターとして活動。 2003年より「Breaker Project」を企画、長期に渡る地域密着型のアートプロジェクトを手がける。 ほかに「水都大阪2009」「BEPPU PROJECT2010」「札幌国際芸術祭2017」など、さまざまな現場において、独自の表現活動を開拓するアーティストとともに、新たな表現領域を探求。 地域に根ざしたアートの実践を通して、現代における「芸術と社会の有効な関係」と、アートマネジメントの役割について研究する。 自分の生き方は自分でつくる 現代美術に出会って、人生観が180度変わる ——雨森さんがアートプロジェクトに関わるようになったきっかけについて、教えていただけますか? 芸大出身で、もともとつくる側だったんです。 学生時代、つくることは楽しかったんですが、現代美術と社会の接点がないことに疑問を感じるようになり…。 現代アートもアーティストも、社会のなかで認知されていない状況に違和感を持ち始めたんです。 社会の側に目を向けると、経済ばかりが重視される時代、価値観も均一化されていくなか、ひとり一人の個性や創造性がどんどん縮小されていく印象もあり、これでいいのかな、と。 ——現代アートの置かれた状況に、疑問や違和感を抱いておられたんですね。 そうですね。 なので卒業後は、設計事務所に就職したんです。 建築だと社会と関わりながら仕事ができるかなと思って就職したんですが、建築の仕事はクライアントありきな部分が大きくて。 社会というよりクライアントの価値観でしか、物事が進まない。 特に賃貸マンションの設計が多かったので、無難なものばかり求められました。 いろいろなタイルや床材なんかを取り寄せるんですが、例えば、原色の真っ赤なタイルなど綺麗な色のタイルはどんどん廃盤になっていく……。 また違和感というか、疑問が湧いてくるわけです。 — —無難なものだけが残っていくことへの違和感でしょうか? 売り手の論理で全てのことが効率化されていくことへの違和感ですかね。 選択肢がどんどん減っていって、無難なものを選ばざるを得ないというのは、私自身耐えられないなと。 「普通」とか「常識」という言葉への反発もありました。 みんながこうだからという理由で、好きでもないけど無難なものを選ぶようになってしまうと、面白みがないというか。 敷かれたレールの上を生きていくのではなくて、もっとそれぞれが好きなように生きていける社会になったほうが、私自身が楽しく生きられるな、と思ったんです。 ——社会のためのというよりは、自分ごとから発生しているんですね。 私自身が現代美術に出会って、人生観が180度変わったという経験が今の活動の原点ですね。 それまでは大学に入って、卒業したら就職して、結婚して……って、人生ってそんな感じかなとぼんやり考えていた。 というか、ほかの選択肢があるのを知らなかったんですよね。 だから芸大に行って、自分で自分の生き方をつくっていけるということに気付けたのは、本当に大きかったと思います。 ——現代アートに出会ったきっかけというのは? 大学受験のときですね。 芸大を受けることになって、受験する大学の卒業制作展に足を運んで初めて現代美術に出会いました。 芸大に入学すると、まわりには既存の価値観や常識にとらわれずに生きている人がたくさんいて、そこに刺激を受けて、自分の価値観も変わり、どんどん解放されていったように思います。 「社会のためのアートということではなく、社会とアートをつなげば何かが変わるんじゃないか、と思ったのがきっかけです」と雨森さん。 「社会」を意識しているアーティストが増えているこの頃。 ——設計事務所を退職されたあとは、どのような活動をされていたんですか? まずは社会とアートをつなぐことが重要だと思って。 でもいきなりフリーランスで生きていけるわけではないので、アルバイトをしながら展覧会を企画したり、アートスペース虹というギャラリーでも3年ほど仕事をしました。 90年代中頃に、京都の高瀬川で行われている桜祭りに合わせて、作品の展示やパフォーマンスを企画する機会があったのですが、その時に通りがかりの人の反応が面白かったんですよ。 ふだんは美術館に足を運んだり、ギャラリーに行ったりしないような人たちも、足を止めて見てくれる。 パフォーマンスをしていたアーティストに「あんた天才やな!」って声を掛けてくれる人もいて。 現代美術はよくわからない、敷居が高いと言われがちですが、アートの文脈を知らなくてもや知識がなくても、伝わるものがあるんだということを実感しました。 その時に、社会とアートをつないでいくためには、自分たちからまちに出る必要があると確信したんです。 まちに出ることで、いろんな出会いがある、そこに面白味を感じたことが、ブレーカープロジェクトにつながっています。 ——アーティスト自身は、社会との関わりについてどのように感じていたのでしょうか? 90年代中頃ごろから少しずつ、社会と関わりながら活動や制作を行うアーティストが私の周りにも出てきました。 アーティストは基本的に「社会ありき」というよりも、まずは個人的なことが表現の出発点になっていると思うのですが、そのアーティストも生活しているなかで社会の影響を受けているのは言うまでもありません。 アートの領域から少し外の世界に出てみることで、社会のしくみに興味を持つようになったり、身近なところで起こっている緊急の社会課題に対してアクションを起こすようになったり、そこで自分が何をすべきか、何ができるのかを考えるようになる。 現在は、アートプロジェクトや芸術祭がこれだけ増えているので、アーティストが地域社会のなかで作品を制作することや参加型のワークショップなどがあたりまえのようになってきているけれど、その当時は、そういう場自体を自らつくっていくから始まっているので、もっと社会に関わる必然性のようなものがアーティストの中にあったように思います。 ——では徐々に、「社会のためのアート」を実践しているアーティストが増えているんですね。 社会のためのアートという言い方は少し違うかなと思います。 社会のためというよりは、社会とのリアルな関わりを必要とする、もしくはそこに面白みを感じるアーティストが増えてきたということかと。 社会のためというのは、あくまでも結果としてであって…。 ブレーカープロジェクトでも、アーティストが地域のなかで時間をかけて新しい表現活動に取り組む環境を整えること、そしてそのプロセスを地域と共有していくことで関わりを生み出していくことを目的にしています。 ——「社会のため」第一の目的ではない、ということでしょうか。 そうですね。 アーティストが生きている中で、社会に対する問題意識とか、憤りをとか、何か変えていかなければいけないという想いはあると思います。 ですが社会や地域のために何か具体的に役に立つような作品をつくるということはほとんどないのではないでしょうか。 予算があってもなくても、まずは、その言葉にならない「何か」を表現せずにはいられないというのがアーティストであって。 公共空間に設置されるパブリックアートのようなケースを除いて、アーティストの自発的な表現活動であったり作品を生み出していくという営みは、クライアントから発注があってその予算に応じてものを作っていくということではないんです。 ブレーカープロジェクトの創造活動拠点のひとつである「新・福寿荘」は、西成区山王にある築60年の木造アパート。 一室はアーティストユニット・パラモデルが制作を行った「レジデンス・パラ陽ケ丘」は、毎年春と秋に1日1組限定で公開する滞在型作品。 まちは長い時間をかけて、住む人によって作られていく。 ——ブレーカープロジェクトは発足から15年ですが、長くプロジェクトを続けていると、目標を見失ったり、進むべき道を迷ったり……ということはありませんか? すごく遠い未来を見ているというか……すぐに結果が出るものではないという意識でやっていて。 まちづくりとか地域活性化とか最近よく言われていますが、まちはそこに住んでいる人たちによって、半ば無意識につくられていく部分が大きいと思うんです。 大きな開発が入るとなるとまた別の話になりますけど。 高齢化して世代交代があったり、建物が老朽化して建て替えられたり、常に変化している。 そういった流れの中で、一人ひとりがどういう選択をしていくのか。 その暮らしのすぐ側にアートが在り続けることで、住んでいる人に何かしらの変化があり、そこからまちへの影響があるのではないか。 そこが一番興味のあるところです。 ——まちが作られていく過程にアートがあることで、そんな影響が起きるか、ということですか? 仮説ですけど…何か影響があるはずだという確信が私の中にはあります。 だから続けている。 目的を見失いそうになったら戻れる場所というか、プロジェクトの軸ですね。 ただ、明確な理想の未来に向けたプランを先に決めてしまうのではなく、遠い漠然とした未来を見据えながら、活動の中で出会っていく人や場所であったり、その時々の状況によって次の一手を考え進んでいく。 分かりにくいし、遠回りだと思われることもあるかもしれませんが、まちの未来をつくっていくのは、そこに住んでいる人たちですし、私たちが答えを持っているわけでもない。 実践を通して考えながらですね。 また地域で活動していくことは、面倒なことも大変なこともありますが、実はそれがまっとうというか、健全だとも思います。 そういったことも含めて面白がれるというのも続けていけるポイントかもしれません。 ——だからこそ、地域に根ざすというか、地域を舞台に活動をされているんですね。 もともと「地域」ということを強く意識していたわけではないんですが、実際にまちに出て活動をするうちに、いわゆる「社会」という言い方は、すごく抽象的だなと思うようになって。 結局は活動する地域、つまり自分たちのいる場所が社会であり、世界とも繋がっていると。 戦争とか経済格差とか挙げればきりがないほど現代社会の問題は山積みですし、一人の力ではどうにもならないことだらけですけど、だからこそ、自分のいる場所から状況を変えていけるといいなと。 地域の場として定着しつつある、元タンス店を改装した「Kioku手芸館たんす」。 2016年11月からは美術家・西尾美也を迎え、地域の人と共にファッションブランド「NISINARI YOSHIO」を立ち上げる新たなプロジェクトがスタートしている。 10年なんて一瞬、地域が変わるにはもっと時間が必要。 ——これからはどんな活動を展開されていくのでしょうか? 創造活動拠点の一つ、旧今宮小学校を活用したプロジェクト、「作業場」づくりの活動や新福寿荘のアーティスト・イン・レジデンスの取り組みは継続していく予定です。 特に2017年は、西成区の広範囲でリサーチをしているので、新たなつながりも作れましたし、今後、そのネットワークを活かしたプロジェクトができればと。 この場所(Kioku手芸館「たんす」)は2012年から活動しているのですが、地域の女性たちの居場所にもなってきているし、地域の人が必要と思ってくれているなら、地域で運営していく方法もあるのかな、と次年度以降は新たな展開を考えています。 ——実験の場所から、地域の場所へと変化していくのですね。 実験的なアートプロジェクトは芸術文化振興の範疇ですが、そこから地域の場所として継続していくのは、単年度事業で組まざるを得ない文化事業とは少し意味合いが変わってくるのかなと。 大阪市の文化事業として実施されたプロジェクトの中で生まれたスペースですが、今後は地域にとって必要な場として運営していくために、地域の町会や活動とどう連携していくのか、どのように予算を獲得し運営基盤を構築していくのか、新たに継続の道を探っていきたいと考えています。 ——ひとつの地域に根を下ろした継続的なアートプロジェクトは大阪では珍しいと思うので、ブレーカープロジェクトの未来も非常に楽しみです。 始めた当初は最低でも10年と思っていたんですが、10年なんてあっという間でした。 10年を経て地域にとってどんな成果があったかというと、本当にささやかなものなんです。 関わった人たちのアートに対する意識の変化だったり、これまでつながりのなかった同じ地域の人同士が出会う場がとなっていたり、暮らしの中の小さな変化だったり。 同じエリアで続けていくと面白がってくれて協力してくれたり参加する人が少しずつ増えていく。 ネットワークも広がっていくので活動もどんどんやりやすくなっていくといったようなことで、数値化できる分かりやすい成果ではありません。 アートが社会にどのようなインパクトを与え得るのか、という問いの答えが目に見えて分かるようになるには、30年もしくは100年くらいはかかるんじゃないかと。 こういった小さな積み重ねを続けた先に、このまちがどうなっているのか、継続しないとその結果は見られないわけですから、これからも続けていきたいですね。 ——これからの大阪市の文化振興について、期待されることはありますか? アートの持つ力を社会のために活かしていくという施策がありますが、地域の課題は簡単に解決できるものではないし、アートはそもそも課題解決を第一の目的とするものでも特効薬でもありません。 もちろんそのきっかけとなることは間違いないのですが、アーティストが新しい表現活動に挑戦したり、その中で切磋琢磨できる環境やそれらを支えるマネジメントの人材、プロデューサーなどが活動していけるインフラを整えていくことが大阪市のめざす将来像「文化自由都市」に向けた大きな課題ではないでしょうか。 現在は西成区内で3つの創造活動拠点を展開しているブレーカープロジェクト。 「こういったものづくりの場が地域にとってなくてはならない場所になり、ゆくゆくは小さな公共の場として各地に広がっていけば」。

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天神橋筋商店街にある消費期限3分!?crepeあまのじゃくのクレープを食べてみた

大阪 あまの じゃ く

Contents• 磐船神社はスピリチュアルスポット 磐船神社は、大阪を代表する穴場のパワースポットです。 磐船神社が鎮座するのは大阪府の北東部、交野市(かたのし)を流れる天の川上流の渓谷沿いです。 磐船神社のご神体は「天磐船」(あめのいわふね)と呼ばれるプリミティブ(原始的)な巨石で、高さと幅はいずれも12mに及びます。 天磐船は、神様が天から乗ってきた船だったと伝わります。 それが岩に姿を変えて、神格化されたわけです。 また、大阪城築城の際、加藤清正という武将がこの大きな岩を運び出すのを断念し、岩上に「加藤肥後守清正」と刻んだ伝説も残されています。 加藤清正は、スマホの待ち受け画面にすると運気がアップするとされる明治神宮の井戸を掘ったあの方です。 天磐船に乗って地上に降臨した神様とされ、この地を根城にしていた豪族「物部氏」のご先祖様に位置づけられます。 ご利益は諸願成就、病気平癒などです。 また、境内には「磐船稲荷大明神」を祭るお社や「住吉大神」をかたどる石仏もあって、金運アップや航海安全などにも効果があるとみられます。 巨石を祭る磐座信仰~原色の祈り~ 磐船神社の御神体だけに、この巨石、確かにすごい存在感で、みる人に畏怖(いふ)の念を抱かせます。 上の写真のように、天磐船を拝む場所として「拝殿」は設けられていますが、本殿はなく、巨岩がむき出しのまま鎮座している格好です。 磐船神社には、天磐船と同じぐらい大きな巨石がゴロゴロあり、自然の中に神仏の姿を感じ取った古代の人の感覚が味わえます。 磐船神社に漂うのは、生と死がもっと身近にあった時代の残り香です。 その信仰は、洗練されたフランス料理ではなく、素材そのものの味を際立たせる漁師料理の素朴さと純粋さに重なります。 原色の祈りが醸す懐かしさに触れ、心を揺さぶられるに違いありません。 岩窟めぐりは過去に事故も 魅力たっぷりの磐船神社ですが、なかでも最大のポイントといえるのが、境内の岩窟内に広がる地下空間を行く「岩窟めぐり」です。 岩窟めぐりは、神道や修験道、仏教の行場として守られてきた聖域ですので、参拝には一定の危険を伴います。 かつて、重大事故が起きたほどです。 当時の報道によると、亡くなった女性は一人で岩窟めぐりに挑戦し、足を滑らせて転落したとみられます。 事故が発生したのは2014年で、以降、しばらく閉鎖されていました。 一般開放されている点を甘く見ず、くれぐれも慎重に参拝してください。 その分、岩窟めぐりの見返りはとても大きいのではないでしょうか。 岩間から外界に広がる緑を望み、地下空間を流れる小川のせせらぎに耳を傾けるだけでも心が洗われます。 そこは、言わば「緊張と安らぎ」「不安と感動」が交錯する世界。 びっくりするほど細い岩の間を潜り抜け、「生まれ変わり」を疑似体験するポイントなどがあり、とても神秘的な体験ができます。 ひょっとすると、現代人が失った原始的な感覚を呼び覚まし、自然の中に息づく神様の姿を捉えることができるかもしれません。 下段に詳しく紹介していますが、電話予約も可能です。 磐船神社 岩窟めぐりの申し込み方法と注意,予約も 磐船神社の岩窟めぐりは、まるで冒険です。 険しい岩間を上り下りする道中、真っ暗な場所、光が差し込むポイント、緑が視界に飛び込んでくるところなど、ドキドキワクワクの連続です。 ただ、岩窟めぐりは「遊び」ではなく「修行」となります。 しつこいようですが、油断すると本当に危ないので、ある程度の緊張感が欠かせません。 磐船神社で岩窟めぐりを希望する場合は、社務所でその意志を伝えてください。 予約をしておけば神社の方が同伴してくれますので、一人での参拝も可能です。 また、雨天・増水時は中止になりますので、あらかじめ電話で確認しておくことをおすすめします。 電話番号は下段の基礎データの項目に記しています。 ほかにも危険を避けるために、磐船神社の岩窟めぐりでは、いろいろなルールを守らねばなりません。 以下、条件をまとめましたので、参考にしてください。 年齢制限(10歳以上、75歳以下)• 滑りにくい靴を履く(サンダル、ハイヒールなど不可)• 飲酒後不可• 一人での拝観不可(予約があれば神社の方の同伴可)• 雨天、増水時不可• 漫画などもありますので、お子さんも退屈しないと思われます。 社務所で参拝を申し出ると、どんな危険があるかが説明されます。 これに承諾して拝観料を納めると、行衣(白いたすき)を貸してもらえ、入口の門を開けてもらえます。 所要時間約20分 拝観時間は変動 磐船神社の岩窟めぐりの開始時刻は午前9時から。 ただし、終了時刻は季節ごとに変動するため注意が必要です。 以下、月別の終了時刻です。 月 終了時刻 4~10月 PM4:00 11月 PM3:30 12~2月 PM3:00 3月 PM3:30 岩窟巡り体験記 洞窟探検さながら 磐船神社の境内には、巨岩が重なり合う形でできた地下空間があります。 順路に沿って、その岩間を縫いながら進んでいくのが岩窟めぐりです。 ご神体の巨岩に向かって左手に、入口があります(写真上)。 急な階段を伝って中に入ると、参拝が始まります。 この先、厳しい岩を上り下りし、岩と岩の間を縫って、先へと進んでいきます。 順路は白い矢印で記されています。 道中、女性の産道に見立てた「生まれ変わりの穴」があります。 ここが磐船神社の見どころであり、また、難所のひとつです。 細い岩間でできた通路を足から抜けることで、「新しい自分」に再誕するイメージです。 何かのけじめや見切りを付けたい時にいいかもしれません。 とても狭い隙間だけに、本当に通り抜けられるのか少し心配になりますが、意外に大丈夫。 スルスルっと抜け出すような、とても不思議な感覚が味わえます。 また岩窟内には、時間帯や季節によっても異なりますが、天井からとても神々しい光が差し込むポイントもあります。 闇の世界から解放され、ホッとする瞬間が訪れます。 ドキドキが続く岩窟めぐりですが、特に心を揺さぶられるのは、日の当たる外界に接する瞬間といえます。 とくに、緑の広がる光景に、言いようのない感激を覚える人も少なくありません。 写真で見てもピンとこないかもしれませんが、紛れもなく「最強のパワースポット」といえるでしょう。 命の広がり、つながりに、思わず涙がにじみます。 闇の中に龍神様を祭るほこらもあり、神秘と幻想の空間が広がっています。 岩窟めぐりは、体験した一人ひとりにそれぞれのドラマがあります。 洞窟の中を流れるせせらぎの音も耳に心地よく、冒険心をくすぐられます。 先入観を持たずに、「参拝を味わう」ことをおすすめします。 磐船神社 岩窟巡りだけじゃない!見どころたくさん 岩窟めぐりを抜けた先にも、磐船神社の見どころがたくさんあります。 大阪屈指のスピリチュアルスポットだけに、岩窟めぐりを抜きにしても十分に見ごたえ、感じごたえがあります。 神道、仏教、修験道と宗教の枠にとらわれない信仰の聖地であるのもうなづけます。 そんなポイントをまとめました。 天岩戸(あまのいわと) 岩窟を抜け、階段を上ったた先にあるのが「天岩戸」(あまのいわと)。 神道で一番格が高いとされる神様「天照大神」(あまてらすおおみかみ)がこもったと伝わる場所です。 沖縄の聖域、御嶽(うたき)で感じるようなプリミティブな感覚が胸にこみ上げます。 京都にある「天岩戸神社」をはじめ、天岩戸伝説は全国各地に残されていますが、3つの巨岩が重なるのはとても珍しい構図です。 天磐船礼拝石碑 「御神体」と刻まれた謎の石碑。 岩窟めぐりを終え、社務所に向かう道中に忽然と姿をあらわします。 これは「天磐船礼拝石碑」で、別の御神体ではありません。 天磐船が間近にあるため、ここからも拝める形になっているものと思われます。 ほかにも磐船神社では、修行者が神仏にアクセスした痕跡や自然崇拝の原風景がたくさん残されています。 管理人は今回、疲れた体でツルツルの岩に抱きつくと、たまらなく癒されることを発見しました。 怒られない程度にどこかで試してみてください。 磐船神社 謎の石碑「オキ大神」とは 磐船神社の天岩戸のすぐそばに、「オキ大神」と刻まれたスピリチュアルな石碑があります。 刻まれた文字も一般的な碑の字体とは異なり、どことなく異質の雰囲気を醸し出しています。 ただ、「オキ大神」と銘打つこの石碑は、いったい何なのでしょう。 いくら調べても、誰に聞いても分かりません。 ところが今回の参拝で、その謎を解く糸口が見つかりました。 順を追って解説いたします! スピリチュアルな石碑の出どころ 磐船神社の宮司さんの話によると、実はこの碑、ここで修業を重ねた信者の方が昭和40年代に安置したものとみられます。 「磐船神社に石碑を祭りなさい」とオキ大神から仰せつかった修行者が、先代の宮司さんに頼み込み、安置されたのが経緯です。 神様にまつわる具体的な情報は、手掛かりすらありません。 そこが、長年にわたる謎だったわけです。 磐船神社の宮司さん、「オキ大神」の出どころについて、人づてに調べて下さりました。 この最大の謎を解くカギは「伏見稲荷大社」(京都市伏見区)にあったのです。 もう少し正確に言うと、伏見稲荷大社の鎮座する「稲荷山」です。 「稲荷山」には、塚やほこらが無数にあり、さまざまな土着の神様や仏様がお祭りされています。 宮司さんの調べによると、 オキ大神は稲荷山にお祭りされている神様の1柱とみられます。 伏見稲荷大社も記事で詳しくまとめていますので、興味のある方はご一読ください。 いまは、磐船神社で「神様の安置」を受け付けることはありません。 ただ、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の足跡を色濃く残す懐の深い神社ならではのエピソードではないでしょうか。 神仏習合とは、平たく言うと、神様と仏様を同一の存在として祭る信仰の形です。 ちなみに、神様というのは得てして、ご自身の言葉を伝える相手によって「名乗る名前が異なる」といいます。 有名な神様や仏様に色々な呼び名があるのはそのためです。 そのため、いきつくところ「オキ大神」が本当はどんな神様なのかまでははっきりしません。 ただ、そんなエピソードがゴロゴロ転がっている磐船神社は、やはり「別格のパワースポット」です。 川の分岐点に鎮座している点でも、最強のパワースポットの構図にも見事に当てはまります。 磐船神社 大岩の四石仏 磐船神社の境内を流れる天の川に面してそびえる巨岩には、4体の仏像が彫られています。 大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)です。 これら仏像は「住吉大神」(すみよしのおおかみ)と総称して呼ばれ、「住吉大社」(大阪市住吉区)との深いつながりを示しています。 お祭りしている神様同士が血縁関係にあったことや、どちらも船にゆかりの深い神さまであることなどが理由のようです。 権力にまつわる歴史的な背景もありますが、これこそがまさに「神仏習合」の形です。 磐船神社近くの滝 「白竜の滝」は禊場&修行の場だった 磐船神社に向かって左方向に数分歩いていくと、小さな鳥居があり、滝の音が聞こえてきます。 ここが磐船神社の禊場(みそぎば)、「白竜の滝」(磐船の滝)です。 交野市が誇る観光名所とまでは言いませんが、磐船神社を参拝した際には、是非お立ち寄りをおすすめします。 白竜の滝は、禊のためだけではなく、(山伏の姿をした)修験者や仏教徒らが修行のために滝に打たれる場所でもあります。 高さ5mほどの滝で、管理人も打たれてみましたが、細く絞り込まれた水は重く、頭頂部がへこむ恐怖を覚えすぐに中断しました。 鳥居の外まで「バチバチ」と水の爆(は)ぜる音が響くほどの水圧です。 以前にも紹介しましたが、昔、神社には手と口をすすぐ「手水舎」がなく、近くの川で禊を行うのが一般的でした。 いまでは数少なくなってしまった自然の禊場も、邪気やケガレをはらう「強力なパワースポット」といえます。 磐船神社 御朱印 磐船神社の御朱印です。 哮ケ峰(たけるがみね)というのは、御祭神(天孫)が神様が降臨したとされる場所です。 またお札は、岩窟巡りを終えた参拝者に授与される護符です。 いずれも社務所で頂けます。 — 2017年11月月23日午後7時50分PST 磐船神社 御由緒~天孫降臨の地~ 磐船神社の起源はわかっていません。 伝承では、大昔、饒速日命が天磐船に乗って哮ヶ峯(たけるがみね)と呼ばれたこの地に降臨されたそうです。 饒速日命という神さまは、時の権力者、物部氏の祭る氏神さまだったようです。 修験道や仏教の痕跡も色濃く残る磐船神社は、宗教の枠を超えた聖地であるのは間違いありません。 osk. 3web. html 磐船神社 交通アクセス&駐車場情報 磐船神社へのアクセスは、マイカーもしくは私鉄とバスを乗り継いでいくことになります。 車を10分ほど走らせた先に「星田妙見宮」というおすすめのパワースポットがありますので、マイカーでのアクセスがベストです。 場所は磐船神社に向かって右手、歩いて1分ほどの川沿いにあります。 スペースは5台程度。 そのままもう少し先まで歩くと、公衆トイレがあり、30台程度無料で止められるスペースがあります。 MAP 磐船神社ルポ まとめ いかがでしたでしょうか。 今回は、磐船神社について紹介させて頂きました。 まとめは以下の通りです。 磐船神社は穴場のパワースポット。 素朴で力強い原色の信仰が見どころ• アクセスに問題。 マイカーが便利。 ほど近くに星田妙見宮も• 磐船神社のご神体は巨石。 神様の乗り物が石化したとされる• 岩窟めぐりがイチオシ。 生まれ変わり体験も。 ただ危険を伴う冒険に。 岩窟めぐりは予約と電話確認するのが無難• 「オキ大神」という謎の石碑の正体が今回明らかに• 大岩に刻まれた四石仏は住吉大社にゆかり• 磐船神社の近隣に自然の禊場「白竜の滝」。 滝行の場でもある。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 実は「磐船神社」と近隣の「星田妙見宮」「天田神社」を線で結ぶと、聖地をあらわす巨大な二等辺三角形が浮かび上がります。 実際、「星田妙見宮」はとてもロマンチックで穴場色の強いパワースポットですので、あわせてお読み頂ければ楽しめると思います。 記事にしていますので、ご興味のある方はぜひお読みください。 今後とも内容を充実させてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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